第108話:染み込む、ように
旅立ちまでの数日を。私はこの湖畔領で静かに過ごしました。
鏡湖のほとりには、あの夜、青白い花が咲きました。けれど痩せていた畑が、緑を取り戻すのには、まだ時間がかかります。花は一夜で咲いても、実りは、一日では戻らない。
それでいいのだ、と。私は思うようになっていました。
北の会議のあの終わりに私は思ったのです。人の心もこの地の恵みも、一度に、どっと潤すものではない。ゆっくりと雨が乾いた土に染み込むように。時間をかけて、戻っていくものなのだ、と。
あの時は少し、もどかしかった、その考えが。今は優しく胸に馴染んでいます。
湖畔の町にも少しずつ、変化がありました。あれほど私を拒んでいた宿の女将が、通りすがりに、黙って、焼きたてのパンを一つ、押しつけてきたり。
子供たちが恐る恐る、けれど面白そうに、私の作る小さな氷細工を、覗きに来たり。誰も口では詫びません。それでも固く閉ざされていた扉が、ほんの少しずつ、開いていくのを、感じました。
「氷のおねえさま」
湖のほとりで私を呼んだのは、ミラという名の、幼い少女でした。……ではなく、いいえ。ミラは北の子。この子は湖畔領の子。けれど同じくらいの年頃の、よく似た、まなざしをしていました。
「あのね。うちのお母さん、まだあなたのこと、こわいって、言うの。御光を消しちゃった人だって」
正直な言葉に私は少しだけ、胸が痛みました。けれど少女は続けます。
「でもね。畑のお豆が今年はいっぱい、なりそうなの。お母さん、それ見て、こないだ、ちょっとだけ、笑ったんだ。……だからいつか。いつか、わかってくれると思う」
小さな手が私に一輪の、青白い花を差し出しました。湖のほとりに咲いた、あの花を。
私は膝をつき、その花を、両手で受け取りました。
「……ありがとう。とても嬉しいわ。お母さまに伝えてね。花が、実になるまで待っています、って」
跪かせる、まばゆい奇跡では、ない。ただ一人の子がそっと、差し出してくれた、一輪の花。けれどこれこそが私の、望んだ「勝利」の、かたちでした。憎しみが一夜で感謝に変わらなくて、いい。ゆっくりと。染み込むように。
路地の先ではあの夜、たった一人、湖を「おかしい」と囁いた、あの老婆が熱の引いた孫の手を引いて、歩いていました。御光の糧になろうとしていた夫も、今はその隣で鍬を担いでいます。
私に気づくと老婆はただ深く頭を下げます。ひとことも交わしません。けれどそれでじゅうぶんでした。この町にいちばん最初に灯った、小さな正気の灯。それが消えずに家族を照らしている。
◇◇◇
「おねえさま。見て」
少し離れた岸で、シエルが、ノアさんとしゃがみ込んでいました。二人で澄んだ湖の水を、覗き込んでいます。
小魚が戻ってきていました。命を吸われ、死の淵にあった湖に。銀色の小さな影がすいすいと泳いでいる。
「わたしね、ずっと自分のことを、助けてもらう子だって、思ってた。純氷もこわい力だって。……でも、この旅でわかったの。わたしの氷は誰かをあたためられる。ノアをげんきにできた」
シエルの横顔が。あの、砂漠の牢で救い出した頃の、怯えた子とは、別人のように凛としていました。
「だから海の都でも。わたし、ちゃんと役に立つね」
私はこの成長した妹を、そっと抱きしめました。染み込むように育ったのは。この地の恵みだけでは、ありません。私の大切な家族もでした。
湖畔領の空に遅い春の、あたたかな雲が、流れていきます。
第108話、お読みくださってありがとうございますわ。
「染み込む、ように」。
花は一夜で咲いても、実りは一日では戻らない。人の心も同じ。エルシア様は、憎しみが一夜で感謝に変わらなくていい、と受け入れられるようになりました。第88話の「一度に潤さず、染み込むように」という主題が、ここで優しく回収されます。
湖畔領の少女が差し出した、一輪の青白い花。「花が実になるまで、待っています」――跪かせる奇跡ではなく、これこそがエルシア様の望んだ勝利のかたち。
そして、シエルの成長。「わたしの氷は、誰かをあたためられる」。砂漠の牢で救い出した怯えた子が、こんなに凛々しく。第一部から見守ってくださった皆さまには、感慨深いのでは。
次回、第109話「あなたの隣が、私の春」。
旅立ちの前夜。エルシア様とカイルム閣下の、二人の時間です。
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