第110話:偽りの太陽の、ある方へ
旅立ちの朝が来ました。
湖畔領のまだ半分は、私を「偽聖女」と、恐れているでしょう。それでも。門の外には思いのほか、多くの人が、見送りに集まってくれていました。白い衣を脱いだあの人たち。イレーヌさんに、ノアさん。侍女のハンナ。そして領主の位を捨てた、ジェラール。
「聖女さま」
ジェラールが深々と頭を垂れました。もうあの穏やかな仮面は、ありません。ただ罪をまっすぐに見つめる、一人の男の静かな顔がありました。
「わたしはここに残ります。この地の遺された者たちに償い続ける。……そして語り継ぎます。あの湖の本当の話を。まばゆい光に、また、誰かが、飲まれてしまわぬように」
「ええ。あなたの声は、きっと届きます。……時間をかけて。染み込むように」
私は微笑みました。氷では溶かせなかった、頑なな心。それを内側から変えていくのは。もう私ではなく。この地で生きていく、人々自身なのです。
ノアさんが駆け寄ってきて、私の手に、そっと何かを握らせました。湖のほとりで拾ったという、青い小石が二つ。
「おねえさまと、シエルおねえさまに。……げんきのおまもり」
その小さなぬくもりに、私は膝をついて、この子をぎゅっと抱きしめました。隣でイレーヌさんが、涙を拭いながら、「海の都でもどうかご無事で」と頭を下げます。
見送る手がいくつも、いくつも振られていました。ほんの数日前、私に石を投げた町とは、思えないほどに。
◇◇◇
馬車が南へと街道を進みます。
窓の外の景色が、少しずつ、変わっていきました。北の雪も湖畔の緑も遠ざかり、やがて、潮の香りが風に混じり始めます。海の都。偽りの太陽の本拠。
北を発って幾日。景色は日ごとに色を変えました。雪をかぶった山々が、なだらかな丘へ。針葉の森が見慣れぬ、葉の広い木々へ。そして風が少しずつ、湿り気と、塩の匂いを帯びていきます。生まれて初めて嗅ぐ、海の気配に、シエルは窓に齧りついていました。
私は膝の上でそっと手を握りしめました。
この二部の長い旅で。私はたくさんのことを、学びました。祭壇を壊すだけでは、人は救えないこと。氷では届かない、心が、あること。そして――繋いだ手のかずだけが、まばゆい嘘に抗えること。
そのすべてを抱えて。私はいよいよ、大もとへと向かいます。無数の命を薪にして、燃える、偽りの太陽。そのいちばん奥に囚われている、もう一人の聖女のもとへ。
――アウレリア。
メルディアで鏡のように向かい合った、あの人。私を「偽物」と呼び、私が「偽物」と呼んだ、あの人。けれどその澄んだ瞳の奥に、一瞬、揺れた、迷いの色を私は忘れていません。
あなたもきっと囚われている。教会という、大きな仕組みの、いちばん美しい、生贄として。
「――待っていてください」
私は南の空を見据えて、呟きました。
「今度は、あなたを。あの、偽りの光の檻から。私が解き放ってみせます」
「一人でとは言わせんぞ」
隣でカイルム様が私の手に、自分の手を重ねました。前の座席ではシエルがノアさんからもらった青い小石を、大切そうに握っています。ロザリア様が扇の陰で、余裕の笑みを浮かべていました。そして海の都の奥では、リオとマルファスが、罪の証を握りしめて、私たちの到着を、待っている。
繋いだ手はもうこんなにも、たくさん。
馬車の車輪の音が、一定の律動を刻みます。それはまるで新しい物語の、幕が開く、太鼓の音のように、聞こえました。
偽りの太陽のある方へ。
私たちの氷の旅は――ここから、いよいよ、その核心へと向かっていくのです。
――第二部「雪解けの内政編」完。
第110話、お読みくださってありがとうございますわ。
そして――これにて、第二部「雪解けの内政編」、完結です……!
第61話、平和な春に届いた救援の声から。ソルレイの祭壇解放、北領会議、偽聖女アウレリアの台頭、そして湖畔領の、信仰の歪みとの戦い。エルシア様は、「祭壇を壊すだけでは救えない」「氷では届かない心がある」という、新しい難しさと向き合い、そのたびに、繋いだ手のかずで、乗り越えてきました。
ここまで、長い旅路を、一緒に歩いてくださった皆さま。本当に、ありがとうございます。
湖畔領に残り、償いと語り継ぎを選んだジェラール。成長したシエル。そして、南の空の下で待つ、リオとマルファス、囚われたもう一人の聖女アウレリア――。
すべての糸が、偽りの太陽の本拠・海の都へと、収束していきます。
次回より、第三部・海都編、始動。
エルシア様と、アウレリア。二人の聖女の因縁が、いよいよ、その核心へ。どうか、続けて、お付き合いくださいませ。
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皆様の応援が、エルシア様の、そして私の、何よりの力になりますの。それでは、第三部で、またお会いしましょう。




