第106話:迷いの、種
――遥か南、海の都。
白亜の大聖堂の、いちばん高い塔の一室で。「太陽の聖女」アウレリアは、窓辺に佇んでいました。
眼下には青い海と彼女を讃える民の、絶えることのない祈り。金色の髪が朝陽を弾いて、輝いています。誰もが彼女を完璧な聖女だと、信じていました。彼女自身もそう、信じて、生きてきたのです。教会に拾われ、育てられ、「お前こそが本物の聖女だ」と教え込まれて。
けれどこの頃、彼女の胸には小さな、けれど抜けない棘が刺さっていました。
――あなたの光は、命を薪にしている。
あの、氷の聖女の言葉が。北の地で鏡のように向かい合った、あの女の澄んだ瞳が。目を閉じるたびに蘇るのです。
「アウレリア様」
衣擦れの音とともに枢機卿ヴァレリウスが、部屋に入ってきました。柔和な笑みの奥に、氷のように冷たいものを湛えた、初老の男。
「近頃、儀式をお渋りになると、聞き及びました。御身は太陽の器。民に御光を施すのが務めにございます」
「……ヴァレリウス猊下。一つ、伺ってもよろしいですか」
アウレリアは振り返らずに問いました。
「わたくしの奇跡は。……本当に誰も傷つけては、いないのでしょうか。あの、地の底から引いてくる、力は。いったい、どこから来るのですか」
ヴァレリウスの笑みが、一瞬、凍りつきました。けれどすぐに彼は、慈父のような声で囁きます。
「余計なことをお考えになりますな。あなたはただ微笑んで光を放てばよい。……あの北の異端者の、世迷言に、惑わされてはなりませぬぞ。あれはあなたの光を、妬んでいるだけの、偽物ですから」
偽物。
その言葉にアウレリアは、静かに目を伏せました。
――どちらが偽物なのでしょう。
その問いだけは、口にはしませんでした。けれど蒔かれた種はもう彼女の胸の、いちばん深いところで静かに根を張り始めていたのです。
◇◇◇
「――面白い、噂を拾いましたわ」
湖畔領を発つ支度の、その最中。ロザリア様が扇を優雅に揺らしながら、私のもとへやってきました。
「わたくしの情報網に南からこんな話が。……海の都の『太陽の聖女』が、このところ、公の儀式をたびたび、お休みになっている、と。塔にこもりきりだ、とも」
私は、はっと顔を上げました。
「それは……」
「ええ。あれほど、民の前に立つのがお好きだった聖女さまが、ですのよ。何か、心に波風が立っている。……そうは思われません?」
私はメルディアの夜を思い出しました。私が「あなたの光は命を薪にしている」と告げた、あの瞬間。アウレリアの、澄んだ微笑みが、ほんの一瞬だけ、凍りついた、あの揺らぎを。
あれは気のせいではなかったのかもしれない。
「あの人も……揺れている」
偽りの太陽。けれどその中心にいるのは、鋼の悪意ではないのかもしれません。私と同じように迷い、傷つく、一人の人間なのかもしれない。ならば、彼女を力で打ち倒すのではなく――
「エルシア様。そのお顔」
ロザリア様がくすりと笑いました。
「また、誰かを助けようとなさっていますわね。敵のはずの相手を」
第106話、お読みくださってありがとうございますわ。
今回は、遥か海の都の、幕間から。
もう一人の聖女、アウレリア。完璧に見える彼女の胸に、エルシア様の言葉――「あなたの光は、命を薪にしている」が、抜けない棘として刺さっていました。「どちらが、偽物なのでしょう」。第87話で蒔かれた「迷いの種」が、静かに根を張り始めています。
そして枢機卿ヴァレリウスの、冷たい笑み。彼女を器として縛りつけようとする、その姿も、不穏ですわね。
一方、ロザリア様が情報網で掴んだ噂。「海の都の太陽の聖女が、儀式を休み、塔にこもりきり」。二つの糸が、静かに繋がりました。
そして、エルシア様は、また――敵のはずの相手を、助けようとしている。
次回、第107話「繋いだ手の、かず」。
海の都へ。旅立ちの、支度が整います。
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