第17話 「冬の手のひら、未来の器(うつわ)」
パリの冬は、朝よりも午後の光がやわらかい。
あたたかさを探すように歩くと、ふたりの影が自然と重なっていく。
長い旅を抜けたあとの静けさは、
派手ではないけれど、確かに“未来の匂い”がする。
まだ何ひとつ完成していない。
家も、祈りも、ふたりの日々も。
それでも、手を伸ばす先に同じ景色があるなら──
それだけで十分だと思える最終話です。
クリニャンクールの市場で、
ふたりが“これからの暮らし”に触れる小さな時間。
どうぞ、ゆっくりお楽しみください。
冬のパリは、淡い金色の光が、街路に雪のように降りていた。
セーヌを渡る風は冷たくても、
シトロンの白いマフラーだけが、やわらかく風を抱いて揺れる。
その端がふっと玲央の手をかすめた瞬間、指先が無意識にその温もりを追った。
最近、あの布の感触がやけに恋しかった。
今日はクリニャンクールへ行く日。
パリで暮らす“最初の器”を探しに行く日だ。
「僕たちの、最初の……カフェオレボール」
そう言ったとき、シトロンは視線をほんの少しだけ逸らした。
「……別に、いいけどな」
声の奥に、隠しきれない喜びの色。
冬の市にある“古い祈り”
クリニャンクールの奥。
倉庫のような店に足を踏み入れた瞬間、シトロンが立ち止まった。
「……祈りの匂いがする」
玲央は小さく笑った。
「またその言い方。
でも……君の“匂い”って言葉、妙に信じられるんだよ」
シトロンは棚の前に立ち、陶器に指をすべらせる。
光沢の下で、時間のざらつきだけを確かめるように。
「これは“古く見せた偽物”。
これは……持ち主が手放すときに泣いた痕がある。
これは新しい。触ってもいい」
「君、完全に楽しんでるよね?」
「まぁな。こういう場所、嫌いじゃない」
猫が尻尾を揺らすように、彼は少し顎を上げて微笑んだ。
棚に並ぶボール。
ふたりは同時に指を伸ばした。
「せーの!」
……合わない。
「もう一回」
「二回目だぞ」
「次は合う気がする」
「なんでだよ」
「経験則」
笑いながら繰り返すうちに、
三度目にはもう、笑いが止まらなくなっていた。
「レオのは軽いんだよ。光みたいに、すぐ先を見てる」
「君のは重い。深くて揺れにくい。……僕はその重さが好きだよ」
沈黙。
シトロンの耳まで赤く染まった。
「……言うな、恥ずかしい」
古い木棚の一番下。
指先が同時に止まった。
白がほんのり黄を帯び、青の絵付けは甘く、不器用で、
ところどころ線が震えている。
完璧からは遠い。
けれど、その不揃いの線が、
まるで人の手の温度をそのまま残していた。
「……可愛いね」
「素朴だ。……いいな」
ただひとつ、問題があった。
一点もの——世界に、これしかない。
玲央は思わず店主に尋ねる。
「あの……これ、もうひとつ、ありませんか?」
店主は眉を上げ、しばらく考えてから奥へ消えた。
埃を払いながら戻ってきた手の中には、
少しだけ形の違う、けれど同じ窯の“兄弟”のようなボール。
「これが、最後の一つ。
長く棚の奥に眠っていたものです」
目が合う。
同時に、笑った。
「……これだな」
「うん。……これだ」
不揃いで、欠けもあって、完全なペアではない。
だからこそ——ふたりには、ちょうどよかった。
*
紙袋を提げて歩く冬のパリ。
ノートルダムの鐘が、遠くで揺れた。
「早くこのボールで朝ごはん食べたいね」
「パリの本邸、使えるの一年後だぞ」
「いいよ。アトリエでも、ミロスでも、島でも。
君と食べられたら、それで幸せだよ」
その言葉に、シトロンは歩みを止めた。
そして玲央の手を、そっと引く。
「レオ……帰ろう」
「うん」
「俺たちの家へ。……まだ、どこも未完成だけどな」
玲央は笑って、その手を握り返した。
不完全なまま始まる暮らし。
欠けを抱えながら、それでも続いていく未来。
そのすべてを、ふたりは“家”と呼ぶことにした。
遠くで鐘の音が鳴り、
パリの空に、冬の光がひとすじ、こぼれ落ちた。
Φῶς, γένοιτο.
Fiat lux.
――光よ、あれ。
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます。
シトロンが人として初めて風邪をひき、
玲央が初めて“誰かを必死で守る喜び”を知り、
そしてふたりが未来を指差して笑う──
そんな温度を、あなたが一緒に感じてくれたなら、
それはこの作品にとって何よりの祝福です。
猫恋は、祈りの物語です。
届かなくても、迷っても、それでも大切な誰かの名前を呼びたくなる、
そんな小さな祈りが、あなたの日々にも灯りますように。
読んでくださるあなたの存在が、この世界をそっと支えてくれています。
心からの感謝をこめて。
また、次の季節で会いましょう。
玲央とシトロンの旅は、これからも続きます。




