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第16話 「ボンネットの約束」〜香りが記憶を呼ぶとき〜

パンの香りとともに蘇る、遠い約束。

神だった頃に交わした“少女との小さな契約”が、

玲央と歩む今にそっと繋がります。

祈りとは、誰かの夢を信じて“分け合う”こと──

そんな静かな朝の一話です。


セーヌの風は、冬でもどこか柔らかかった。

川面を渡ってくるパンの匂いに誘われ、ふたりは自然と歩幅をそろえる。


「……いい匂いだな」


シトロンが小さくつぶやく。

玲央は微笑んで頷いた。

角を曲がると、小さなパン屋が見えた。

店内には、焼き上がったばかりのクロワッサンが、

山のように積まれている。


「入ってみる?」


玲央が扉を押すと、鈴の音が澄んで響いた。

その瞬間、シトロンの足が止まる。


「……この名前、知ってる」


看板を見上げる。理由は分からない。

ただ、胸の奥で何かがゆっくりと開いていくような感覚だけが残った。

パンの匂いが、遠い時間を引き寄せていく。

パリがざわついていた頃。

人の出入りが絶えた貴族の館で、シトロンは猫の姿のまま気ままに暮らしていた。

広い屋敷の中で、唯一よく笑っていた少女がいた。

白い指で背を撫で、抱き上げ、名前を呼び続ける子。


ある日、少女はシトロンを抱きしめて言った。


「外に出たいの」


禁じられていることを知っている顔だった。

それでも瞳の奥に、確かな決意が灯っていた。

少女の手には、小さな絹のボンネット。

淡い黄色のリボンが風に揺れる。


「これ、あげるわ。連れていってくれたら」


そのリボンを、少女はシトロンの首にそっと結んだ。


「……いいよ」


軽く答えた瞬間、契約が静かに成立した。


空気が揺れ、光がほどける。

シトロンの身体はふわりと伸び、猫から人の姿へ。

少女は目を丸くして息をのんだ。


「……王子さま?」


シトロンは何も言わず、驚く少女をやさしく抱き上げた。

パンとチーズの入ったバスケットを片腕に、外へと出る。


街は冷たい喧噪に満ちていた。

少女の友達は瀕死で、パンの香りにわずかに目を開ける。

だが、次の瞬間。

空気が変わった。

少女の服装が目立ちすぎた。

視線。

ざわめき。

石。


シトロンは一拍で判断した。

少女を抱き寄せ、バスケットだけを地面に置き、輪の外へ退く。

誰を責めるでもなく。

ただ、守るためだけに。


玄関先で少女はシトロンを見上げ、胸いっぱいの息で言った。


「わたし、大きくなったら……パン屋さんになるわ!」


震える空の下で、それでも未来を語った。

シトロンは返事をしなかった。

ただそっと、少女の頬に口づけを落とした。

扉が閉まる。

その音が、別れを告げた。

シトロンの独白が胸の奥で静かに落ちる。

——あの子がどうなったのかは、知らない。

パン屋の中。

クロワッサンが焼き上がる小さな音。

バターの香り、温かな息づかい。


玲央が受け取った紙包みをそっと開く。

その白い紙には、店名の横に、

小さな黄色いリボンのマークが印刷されていた。

光を受けて、インクが淡く透けて見える。


シトロンはそれを見た瞬間、

指先でリボンの模様をなぞり、息を止めた。


「……続いたな」


彼は包みを開き、クロワッサンをひと口。

その香りが、遠い記憶の続きを静かに呼び覚ます。


玲央は横顔を見て、やわらかく笑う。


「美味しいね」


「ああ」


それだけの言葉で、祈りの欠片が静かに結ばれた。


玲央は小さく息を吸い、低く囁いた。


「——シトロン。誰かを守った後の、君の顔だね」


「そんな顔、してたか?」


「うん。でも聞かないよ。今、ここにいる君が全部だから」


パンの香りが、冬の街を満たしていた。

セーヌの風がガラスを撫で、ふたりの影をやわらかく重ねていく。

過去の約束が、静かに今へと息づいていた。


Φῶς, γένοιτο.

――光よ、あれ。


この章は、フランス革命の冬を想いながら書きました。

時代のうねりの中で、声を上げられなかった人々、

夢を語ることも許されなかった小さな命たちへ。


パンの香りも、風の匂いも、

きっと彼らが見たかったもののひとつだったはず。

だからこそ、祈りは静かに──

奪うのではなく、分け合う形で続いていく。


“ボンネットの約束”は、そんな鎮魂の祈りでもあります。

どうか、この香りのなかに、

一瞬でも“あたたかい記憶”を感じてもらえたなら嬉しいです。

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