70.聖女は助けを求める
「それで、ターゲットは聖女……シルヴィア様ってことで合ってるか?」
寂れたバーの奥にある怪しげな隠し部屋で、ソフィアは優雅に脚を揃え、静かに頷いた。
「ええ」
「……聖女となると、こっちだって相当慎重に動かなきゃならねぇ。お代は——」
ドサッ
男が言い切るより早く、大量の金貨が詰まった重厚な袋がテーブルの上に叩きつけられた。
男は一瞬目を丸くしたものの、すぐに卑しい笑みを浮かべて袋を手に取り、枚数を確かめ始める。
「ケッ、話が早くて助かるぜ。……依頼成立だな」
「日時は特に指定しないですけど……今月中には完了させなさい」
「はいはい、了解で〜す」
男のへラへラとした舐めた態度にソフィアはかすかに眉をひそめたが、追及することはしなかった。この男の腕前や信頼できるかなど、彼女にとってはどうでもいいことだったからだ。
用件を終えると、彼女は立ち上がり、その部屋から即座に離れようとする。
扉に手をかけたところで、ソフィアは振り返り、鋭い眼光で男を射抜いた。
「……絶対に、やりなさいよ」
氷のように冷たく、背筋が凍り付くような殺気を孕んだ一言。
さっきまでふざけていた男の顔から瞬時に笑みが消え、真剣な顔で頷いた。
「……っ、へい。抜かりなく」
◇ ◇ ◇
「孤児院の子たち、みんな可愛かったな……。……それにしても、お金が足りていないのよね。横領なんかはなさそうだったから、単純に寄付額が少ないんだと思うけど……」
空が赤く染まる夕暮れ時。王都の孤児院からの帰り道で、シルヴィアはひとりぽつりと呟いた。
「私に、何かできることはないのかな……」
神妙な面持ちで思い悩んでいた、その時。
ドッ——
「あ、ごめんなさい——」
通りすがりの人物と肩がぶつかり、顔を上げて、シルヴィアは思わず息を呑んだ。
目の前に立ちはだかっていたのは、圧を纏った柄の悪い大柄な男たち——それも何人もいたからだ。
結構危険な状況だと感じ、途端に血の気が引いていく。
「……お前が、シルヴィア・ロドンか?」
「え……ち、違いますけど……」
正直に答えてはいけないと、嘘をつく。
しかし、男たちは端から彼女の言葉など信じる気はないようだった。
屈強な男の一人が、ニヤリと下品に歪んだ笑みを浮かべて手を伸ばしてくる。
「ひっ……!」
声を漏らす。
「キャァァァァァァッ!!」
悲鳴を上げ、シルヴィアは弾かれたように回れ右をして裏通りへと逃げ出した。
男達に向けられた視線は、獲物を追い詰める猟師のそれだった。
「に、逃げないと……っ!」
必死に細い路地へと飛び込み、幾度も角を曲がって撒こうとする。
足が泣きたくなるくらいジンジンと痛むが、決して足は止めない。背後から響く男たちの野太い罵声と荒々しい足音が、恐怖となって彼女を強く突き動かしていた。
——しかし。
「えっ……行き止まり……っ!?」
突き当たったのは、高くそびえる冷たい石造りの壁。
終わったかもしれないと考えながらも、引き返そうと、弾かれたように振り返った——その瞬間。
「よう、聖女様……逃げごっこは終わりだ」
退路を塞ぐように、男たちが壁となって立ちふさがっていた。
「お、終わった……」
真っ青な顔で、シルヴィアは今にも泣き出しそうになる。
だが、己が宿す『聖女』としての価値と責務を理解しているからこそ、こんな裏路地で死ぬわけにはいかないと、男たちを睨みつけた。
「な、何が目的ですか? それとも、誰かに依頼でもされたのですか?」
「言ったところで、ここで殺されることに変わりはねぇんだから教えねぇ……と言いたいところだが、良いぜ」
声にはならなかったが、縋るように「答えて」と動いたシルヴィアの唇を見て、男はニヤニヤと嗜虐的な笑みを深めた。
「何歳かは知らんが……驚くほど太っ腹な女からの依頼でな。まだ成人すらしていない令嬢だったかもしれん。……まあ、聖女様もついてねぇよな。まだ若いのに、護衛もつけずに歩いていたせいで、俺たちに殺されるんだからよ。御愁傷様だなぁ?」
「成人前の……女の子……?」
頭に浮かぶのは、ただ一人。
学園で圧倒的な暴力と権力を誇り、彼女に宣戦布告をしてきたあの__。
顔を青ざめさせ、シルヴィアは強く唇を噛みしめた。
「さあ……仕事を始めようかぁっ!?」
ギラリと鈍い光を放つナイフが、容赦なく振り上げられる。
「いやぁぁぁぁっ!」
恐怖のあまり腰が抜け、地べたにへたり込む。
視界が涙で滲んでいく中でも、振り下ろされる死の刃から決して目を逸らすことはできなかった。
「誰か……誰か助けてっ!!」
「__風魔術 第2位階 『圧空連破』!」
頭上から響いたのは、聞き覚えのある、どこまでも落ち着いた気品溢れる声。
「!?」
バッと顔を上げると、夕日を背に受けながら、一人の青年が美しく宙を舞っていた。
高度に凝縮された空気が猛烈な風圧となり、怒涛の衝撃波となって叩きつけられる。
襲いかかろうとしていた男たちは、悲鳴を上げる間もなく遠くの壁へと吹き飛ばされた。
ズドォォォォンッ!!
荒れ狂う風が去り、舞い散る埃の中で軽やかに着地する。彼は、地べたに座り込んでいるシルヴィアへ静かに歩み寄り、優しく手を差し伸べた。
「大丈夫かい? シルヴィア様」
差し出された白く美しい手。夕暮れの光の中で浮かべる柔和で甘い微笑みは、学園で見慣れたそれだった。
「王太子……殿下……っ!」
張り詰めていた緊張が一気に解け、シルヴィアの瞳からぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。




