第5話 元の場所には戻らない
処分を止めた日の午後、薬務官が二つの包みを机に並べた。
一つはテオの手元に残っていた香。もう一つは、同じ納入番号の未開封品だった。
「内容は同じ夢樹脂です。ただし、職員に渡された説明書の分量は、正規のものの四倍になっています」
薬務官は紙を裏返した。薄い紙を重ねて貼った跡があった。
「元の注意書きには、換気を妨げるな、とある。上から貼られた指示は逆です」
私はテオの震える手を思い出した。
毎晩同じ量を足す。最後には換気板を閉める。
善意だと信じて守った手順そのものが、アルクを追い詰めていた。
ローデ商会の担当者は、管理棟の別室に呼ばれていた。聴取には管理院の調査官とマルタ飼育長が立ち会っている。
「そんな紙、職員が勝手に作ったんでしょう」
担当者は机の向こうで腕を組んだ。
「私は正規品を渡しただけだ。扱いを間違えた責任まで取れませんよ」
セドリックは反論せず、封をした説明書を調査官へ渡した。
「受け渡しを見た者は?」
「私だ」
マルタが答えた。
「搬入口で、そこの男が小皿と包みをテオに渡した。眠りを整える香だと言ったので、私は医務の許可があるのかと尋ねた。男は、許可は取ってあると答えた」
飼育長の声が少し掠れた。
「その場で医務へ確かめるべきだった。リーゼだけに記録を出せと言う資格は、私にはない」
担当者の腕がほどけた。
「許可の件は、行き違いが――」
「調べます。それと、これはあなたが昨日提出した買付予約です」
調査官がもう一枚の紙を置いた。
白翼獅子一頭分の羽根と爪。引き取り予定日は、今朝。
アルクの処分が正式に決まるより前に、素材の数量と回収車が押さえられていた。
「定期的な見積もりですよ」
「では、なぜ右の翼の古傷まで記載されているのですか」
私はそこで口を開いた。
「アルクは幼い頃に羽根を傷めています。生え揃ってはいますが、一か所だけ短い。日々の手入れの記録にも、そう残しています。これは一般的な白翼獅子の見積もりではありません」
調査官が、私の記録と予約票の記載を照合した。
担当者は黙った。だが、黙ったことを自白の代わりにはしなかった。
正規の注意書きを知りながら逆の指示を渡した疑い。事故の前から、アルクを素材として売る準備をしていた記録。男が否定するなら、その否定も含めて調べる。
アルクの声は、ここまで私たちを連れてきた。
けれど、この机で男に突きつけられているのは、アルクの怒りでも私の勘でもない。人間が渡した紙と、人間がつけた帳簿だった。
翌日。
ローデ商会の現場担当者は、故意の器物損壊と幻獣への薬物投与の疑いで王都の治安維持局に引き渡された。
この一件が即座に商会本体の摘発へ繋がるわけではない。取引所へ流れた金まで調べるには、時間がかかる。だが少なくとも、アルクの暴走が外部からの薬物によるものだという真実は守られた。
薬務官の鑑定と、獣医官・別班の飼育員による経過観察が再審査に回された。薬物の影響が薄れるにつれて異常な興奮は収まり、既往の記録にも同種の暴走はなかった。
数日後、アルクの危険指定は撤回された。警戒を解いて放すのではなく、傷の治療と定期観察を続けながら、上層の舎房へ戻すことになった。
「リーゼ・フェルン。今回の再調査により、君が飼育手順を誤ったという認定は撤回された」
管理院の役務室で、管理役人はひどく渋い顔をしながら私に書類を差し出した。
「君に対する解雇処分を取り消す。明日から元の飼育班へ復職し、引き続き白翼獅子の世話にあたるように」
それは、私がずっと望んでいた「元の場所」への切符だった。
疑いが晴れ、大好きなアルクのそばに戻れる。それだけで十分なはずだった。
私は解雇取消の書類を受け取った。けれど、配属を元に戻す辞令には、すぐには頷かなかった。
「……お断りします」
「なんだと?」
役人が不快そうに眉をひそめる。
「誤解しないでいただきたい。私は幻獣の世話を辞めるつもりはありません。ですが、ただ『元の班』に戻るだけでは、意味がないんです」
私は役人を真っ直ぐに見据えた。
「言葉が通じないからと、人間が勝手に都合の良い報告書を作り、声なき幻獣を利用する。そんな仕組みが放置されている限り、第二、第三のアルクが必ず生まれます。観察と聞き取りを一緒に調べる窓口を作れませんか。気づいた人が記入して、受け取った人の名前も残すんです。私はもう、手帳の中だけに書いて黙っていたくありません」
「生意気を言うな。一介の下級職員が、管理院の制度に口出しできるとでも思っているのか」
「彼女の言う通りだ」
背後から、静かな声が響いた。
セドリックが、いつものように黒い外套を羽織り、記録板を手にして立っていた。
「宮廷異語局の翻訳だけでは、事実を取り逃がす。彼女の行動観察がなければ、話者の嘘や勘違いを補正することはできない。幻獣の発言をただの音声ではなく、意味のある情報として扱うためには、翻訳と行動観察を併記した共通の記録様式が必要です」
セドリックは役人のデスクに、新たな書類を置いた。
それは私が提出した記録様式案に、彼が異語局の決裁を添えた、『幻獣証言調査室』の試験運用に関する上申書だった。
「三十日間、彼女を行動観察の担当として派遣していただきたい。翻訳と観察は、それぞれの担当名で記録を残す。調査室で照合し、有用性を確かめます」
役人は忌々しそうに書類を睨みつけたが、宮廷異語局の権威と、今回の事故を防げなかった管理院側の落ち度を前に、反論する言葉を持たなかった。
「……好きにしろ。ただし、三十日後に何の成果も挙げられなければ、調査室は即時解体だ」
役人が吐き捨てるように言い、私たちは役務室を後にした。
「……よろしかったのですか、ヴァール様」
廊下を歩きながら、私は隣を歩く彼に尋ねた。
「宮廷異語局の誇り高き翻訳官が、私のような下級飼育官の観察記録に頼るような窓口を作ってしまって。あなたの名誉に傷がつきませんか」
「私は正確でありたいだけだ。名誉には興味がない」
セドリックは足を止め、私を見下ろした。
その瞳は、出会った時のような冷たいガラス玉ではなく、確かな熱を帯びた生身の人間の目だった。
「フェルン飼育官。私は言葉を訳す。だが、君が見ていたものを私は見落としていた。これからも私に同行し、行動を読んでほしい」
それは命令ではなく、初めて彼の方から私に向けられた『依頼』だった。
私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じながら、深く頷いた。
「はい。よろしくお願いいたします、ヴァール様」
「では、早速だが最初の依頼が入っている」
セドリックは表情を崩さないまま、新しい書類をめくった。
「王立薬庫から鎮痛薬を盗んだ疑いで、保護されている鏡尾狐だ。狐は『飼育員は盗んでいない』と証言しているらしい」
「鏡尾狐……あの子たちは、とても賢くて、そしてよく『悪戯』をする種族ですね」
私は新しい手帳を取り出し、ペンを構えた。
元の場所には戻らない。ここから始まるのは、声なき声と、見えない真実を繋ぐ、私たちだけの新しい仕事だ。




