第4話 処分停止
夜明けまで、あと三時間。
王立幻獣舎の管理棟にある管理院の役務室には、まだ夜の深い窓の外とは違う息苦しさで、重苦しい空気が立ち込めていた。
豪奢なマホガニーのデスクの向こう側で、管理役人が忌々しげに舌打ちをした。
「……だからなんだと言うのだ」
役人は、デスクの上に置かれた夢樹脂の小皿と、セドリックが書き留めたテオの証言記録を一瞥しただけで、すぐに興味を失ったように背もたれに寄りかかった。
「たかが下級職員が、責任逃れのために外部の業者に騙されたと泣きついた。それだけの話だろう。商会がわざわざ幻獣を暴走させるメリットなどない。証拠不十分だ」
「小皿の包み紙に残された封蝋はローデ商会のもので間違いありません」
私は必死に食い下がった。
「それに、テオはアルクに危害を加えるつもりは毛頭ありませんでした。アルクは善意で騙されたテオを庇って『知らない』と証言したんです。アルクは自分から暴走したわけではありません。薬物によって引き起こされた事故です。どうか、明日の……いえ、今朝の処分を取りやめてください!」
すがるように声を張り上げた私を、役人は冷ややかな目でねめつけた。
「フェルン。お前は幻獣管理院の『危険個体制度』を根本から履修し直した方がいい。いいか、薬を除けば再発しないと、誰が保証できる」
役人は引き出しから分厚い規則書を取り出し、バンと音を立ててデスクに置いた。
「幻獣は強大な力を持つ国家資源だ。それが一度でも人間に牙を剥き、施設を破壊したという『結果』こそが重要なのだ。薬物だろうがストレスだろうが関係ない。一度タガの外れた獣は、二度三度と同じことを繰り返す。王都の安全を守るため、重大事故を起こした個体は隔離し、再発のおそれが高ければ処分する。今回の報告では、そのおそれが高いと判断したのだ」
「そんな……! 薬を盛られた被害者なのに、殺されなければならないなんておかしいです!」
「被害者? 幻獣は人ではないのだぞ、フェルン。財産であり管理対象だ。お前のくだらない感情論で、規則を曲げることなどできん」
役人は顎をしゃくり、扉の方を示した。
「処分は予定通り、日の出と共に実行する。異語局の最終供述は得たのだから、もう帰って結構だ」
目の前が真っ暗になった。
証拠を集めても、嘘の理由を突き止めても、この理不尽な制度の前では何の意味も持たないというのか。
「私の復職はどうでもいいんです」
私は両手を固く握りしめ、震える声で言った。
「私が全部責任を被ります。私が怠慢だったから、業者の侵入を許した。私が手帳のメモをすぐに報告しなかったから、初動が遅れた。全部私のせいでいい。だから……アルクの命だけは奪わないでください!」
私が深く頭を下げたその時。
「フェルン飼育官、頭を上げなさい」
隣に立っていたセドリックの、氷のように澄んだ声が落ちた。
「報告しなかったことと、薬を投じたことは別だ。君が全部引き受ければ、本当の原因が記録から消える」
私はハッとして顔を上げた。
セドリックは一歩前に出ると、先ほど役人が叩きつけた規則書の上に、自身が持ち歩いている革表紙の記録板をことりと置いた。
「ヴァ、ヴァール殿。いくら宮廷異語局の翻訳官といえど、管理院の決定には――」
「ええ。異語局には、危険個体の処分を止める権限はありません」
セドリックは淡々と認めた。その声には、怒りも気負いも一切ない。
「しかし、管理院が『規則』を重んじるというのであれば、正しい手続きを踏んでいただきたい」
「正しい手続きだと?」
「昨日、あなたが上層部に提出し、受理されたアルクの事故報告書です。そこには『フェルン飼育官の飼育手順の誤りによる過度なストレスが原因』と明記されているはずだ」
セドリックは役人の目を真っ直ぐに見据えた。
「この欄には、通常の飼育下でも暴走が再発するおそれがある、とある。薬物が関与したなら、その判断の前提を調べ直す必要があります」
「原因が違っただけだ。暴れた事実は消えない」
「消しません。だから、安全性を確認するまで隔離を続ける。その上で、この再審査の規定を適用してほしい」
セドリックの指が、役人の開いた規則書の一行に止まった。
処分前に指定の根拠を左右する新資料が提出された場合、管理責任者は再審査の要否を判断し、その理由を記録する。
「小皿も、設置した職員の話もあります。私は再審査を申請します。認めないなら、なぜ新資料が判断を変えないのか、書面で回答を」
私は手帳を開き、机に置いた。
「薬を取り除いた後の呼吸と行動は、獣医官と別の飼育員に調べていただけます。私の観察だけで安全だと決めてほしいのではありません。調べる前に、殺さないでほしいんです」
役人は規則書と証拠箱を見比べた。
今度は、セドリックも私も、返事を待った。
「……わかった。わかったよ」
沈黙の末、役人は苦々しく吐き捨てた。
「処分の実行は、再審査が完了するまで一時停止とする。……だがな、勘違いするなよ。危険個体の指定が解除されたわけではない。あの獣が薬で暴走したのだとしても、実際に施設を壊したのは事実だ。最終的な審理で、やはり処分が妥当と判断されればそれまでだ」
「承知している」
セドリックはそれだけ言うと、一時停止の署名がなされた書類を受け取り、踵を返した。
地下牢に戻ってきた時、青白かった魔力灯の光は少しだけ頼りなくなり、鉄格子の向こうには地上から微かな朝の気配が届き始めていた。
檻の中のアルクは、私たちが戻ってきた気配を察してゆっくりと頭を上げた。
私は鉄格子に駆け寄り、その場にへたり込んだ。
「アルク……よかった。今日の処分は、止まったわ」
言葉が通じないことはわかっている。それでも、私はアルクの無事を確かめるように声をかけた。
アルクは私の顔をじっと見つめると、小さく鼻を鳴らした。
先ほどまで痛々しく逆立っていた耳の付け根の毛が、わずかに寝ている。浅く速かった呼吸も、今は深く、一定のリズムを刻んでいた。
処分が止まったと分かっているわけではない。それでも、私たちが落ち着いた声でそばにいる間は、アルクの呼吸もゆっくりになる。私はしばらく、そこを動かなかった。
「……ありがとうございます、ヴァール様」
私は立ち上がり、背後に立つセドリックに深く頭を下げた。
「再審査の規定を見つけてくださらなければ、アルクは今頃……。私一人では、絶対に時間を稼ぐことなんてできませんでした」
「礼を言われる筋合いはない。私は規定の手続きを要求しただけだ」
セドリックは相変わらず無愛想に答えたが、その視線はアルクに向けられていた。
「それに、まだ終わったわけではない。役人の言う通り、これは一時停止に過ぎない。犯罪の調査とは別に、アルク自身の再発危険を診てもらう必要がある。業者が有罪でも、それだけで安全だとは決まらない」
「はい。わかっています」
アルクを完全に救い、私が元の場所に戻るためには、テオを騙したあの業者を捕まえなければならない。
セドリックは懐から、先ほど廊下で見ていた『危険個体処分台帳』の写しを取り出し、険しい顔でその紙面を見つめた。
「同じ業者が何度も回収している。それだけでは、過去の事故も仕組んだとは言えない」
セドリックは台帳を閉じた。
「まずは今回だ。テオから説明書と残りの香を預かった。薬務官が量を調べている」
「業者が正しい使い方を知っていたかも、必要ですね」
「納入記録を調べてもらう。君には、アルクの聞き取りに立ち会ってほしい。もう、相手を目の前へ連れてきて怯えさせる必要はない」
私たちは鉄格子から少し離れて座った。
セドリックは、煙が出る前に誰がどこにいたのかを、順に尋ねた。アルクは短く鳴き、途中で口を閉ざした。
私がいつもの刷毛を見せると、鼻先が動いた。テオが使っていた、柄の欠けた刷毛だった。
やがてセドリックが、ゆっくり読み上げた。
「『刷毛の人間が、火をつけた。あいつを連れていかないでくれ』」
やっぱり、と思った。けれど、聞けてよかった。
羽根の動きだけで、庇う相手まで決めつけなくてよかった。
「テオがしたことは調べます。でも、あの子の話も聞くと伝えてください」
私は刷毛を膝に置いた。
「アルクが黙って、代わりに罰を受けなくてもいいんだって」
言葉を訳す男と、行動を読む女。
私たちは互いの足りない部分を補い合うように、ただ一頭の幻獣を救うため、初めて同じ方向を向いて歩き出そうとしていた。




