第3話 記録は嘘をつかない
「……夢樹脂自体は、幻獣の鎮静薬や医療用の麻酔としても広く流通している。所持していること自体は合法だ」
上層の舎房。封をした証拠箱に収められた小皿を確かめながら、セドリックが静かに言った。
彼の言う通り、夢樹脂は幻獣の興奮状態を抑えるために使われる一般的な薬品でもある。幻獣舎の薬局庫にも備蓄されているはずだ。
「ですが、アルクの処方記録に夢樹脂はありません。それに、正規の医療処置なら獣医官が立ち会うはずです。通気口に隠すように置く理由がありません」
私は首を横に振った。
「それに、この小皿の包み紙にあった封蝋。これは間違いなく、危険個体として処分された幻獣の遺体を回収し、国庫へ戻す『再資源化』を請け負っている外部業者のものです」
「業者が、生きた白翼獅子に夢樹脂を与えたと?」
「業者が直接ここへ入り込むのは難しいです。上層の舎房は関係者以外の立ち入りが厳しく制限されていますから」
私は作業着のポケットから再び手帳を取り出し、パラパラとページをめくった。同じ手帳の後ろ半分には、正式な当番簿に転記するための清掃・給餌時刻も控えてある。そこを入口の受付簿と照合した。
管理役人は「そんなものは下級職員の自己満足だ」と笑うかもしれないが、口の利けない幻獣を管理する以上、環境の変化を記録し続けることは飼育官の義務だと私は思っている。
「ありました。……事故の三日前、午後の清掃時間です。この日、飼料の追加搬入のために業者が来ていますが、滞在時間がいつもより二十分ほど長くなっています」
私は手帳の文字を指でなぞった。
「そして、この時間帯にアルクの舎房を担当し、業者の搬入に立ち会っていたのは……テオです」
テオは、私より一つ年下の若い下級職員だ。
不器用で要領は良くないが、幻獣への愛情は深く、暇さえあればアルクの毛並みをブラッシングしに来ていた。アルクもまた、テオの持ってくる甘い木の実が大好きで、彼が来ると喉をゴロゴロと鳴らしてよく懐いていた。
「テオが、自らアルクに害を与えるようなことをするはずがありません。でも、もし業者が彼に何かを吹き込んだのだとしたら……」
私たちは足早に舎房を後にし、下級職員の控室へと向かった。
解雇を言い渡された私が宮廷異語局の翻訳官を連れて歩く姿に、すれ違う職員たちは怪訝な目を向けたが、セドリックの冷たく威圧感のある佇まいを前に、誰も口出しはしてこなかった。
控室の片隅で、テオは青白い顔をして座り込んでいた。昨夜の暴走事故でアルクが処分されると聞き、ひどく落ち込んでいるようだった。
「テオ」
私が声をかけると、彼はビクッと肩を震わせた。
「リ、リーゼ先輩……。あの、解雇されたって聞いて……アルクの処分も……」
「テオ、三日前の午後に何があったか、最初から教えて」
私の単刀直入な問いに、テオの顔から血の気が引いた。
彼の目が泳ぎ、震える手が膝の上の布地を固く握りしめる。
「な、なんのことですか。僕は、何も……」
「通気口から見つかったのよ」
私は彼の目を見つめた。
「夢樹脂の燃えカスが入った小皿。包み紙には、業者の封蝋があったわ」
その言葉を聞いた瞬間、テオの目からポロポロと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「違うんです! 僕は、そんなつもりじゃなかった!」
テオは両手で顔を覆い、しゃくり上げながら叫んだ。
「業者の人が……あの搬入の時、『最近、アルクが夜鳴きをしてよく眠れていないようだから、これを焚いてやればいい』って。幻獣の眠りを整える、特別な高級な香だからって……」
「眠りを整える香……」
「はい。勝手に薬をあげるのは規則違反だってわかってました。でも、アルクは最近少し神経質になっていたし、先輩も忙しそうだったから……アルクが楽になるならと思って、毎晩同じ量を足すよう言われて、三晩、通気口の奥で焚きました。最後の晩には換気板も半分閉めるようにって。甘くていい匂いがして、アルクも気持ちよさそうに……本当に、それだけなんです!」
泣き崩れるテオの言葉を聞きながら、私は痛む胸を押さえた。
テオは騙されたのだ。業者は彼の幻獣への純粋な愛情を利用し、夢樹脂を仕掛けさせた。
そして、全てが繋がった。
アルクがなぜ、「甘い煙を焚いた人間は知らない」と嘘をついたのか。
アルクは知っていたのだ。毎日ブラッシングをしてくれる優しいテオが、あの小皿を置いたことを。そして、昨夜自分が正気を失い暴走してしまった原因が、あの甘い煙にあることにも気づいていたのかもしれない。
自分が暴れたせいで、テオが罰せられるかもしれない。人間たちに捕まり、ひどい目に遭うかもしれない。
だからアルクは、ただテオを守りたくて、翻訳官の前で「知らない」と嘘をついたのだ。
『飼育官は悪くない』と私を庇い、『煙を焚いた人間は知らない』とテオを庇った。
あの子は、自分がいま殺されようとしているというのに、人間のことばかりを庇っていた。
「……馬鹿な子」
私は視界が滲むのをこらえきれず、小さく呟いた。
「フェルン飼育官」
隣に立っていたセドリックが、静かな声で私を呼んだ。
彼は泣きじゃくるテオを一瞥し、手元の記録板に万年筆を走らせ始めた。
「職員の説明と現場を照合する。その後で、アルクにも聞き直そう」
セドリックは水差しから一杯注ぎ、テオの手元へ置いた。
「思い出せない箇所は、そう言っていい。香を渡された時のことを、君が覚えている順に話してほしい」
テオは両手で杯を包んだ。息が落ち着くまで、セドリックは待った。
私はその間に口を挟みかけて、やめた。「眠りを整えると言われたのね」と繰り返せば、私の言葉が彼の記憶に混じってしまう。
セドリックは、テオが自分で話し出すまでペンを動かさなかった。
「……業者の男は、『ローデ商会』の腕章をしていました」
セドリックの淡々とした問いかけに促され、テオは少しずつ落ち着きを取り戻し、記憶をたどって答えた。
「最近、幻獣舎の資源回収に入り浸っている商人です。香を渡された時、『この香は俺たちからの善意だから、内緒にしておいてくれよ』と笑っていました」
「ローデ商会」
セドリックがその名を書き留め、ペンを止めた。
「ありがとう。残った香と、渡された説明書があれば、飼育長に預けてほしい。記録は読み返してもらう。違う箇所があれば直す」
セドリックはテオに背を向けると、私に顎でしゃくり、控室を出た。
廊下に出た私は、大きく息を吐き出した。
「テオの話が確かなら、アルクの嘘の理由も説明できます。テオの善意を利用して、アルクに夢樹脂を吸入させたのはローデ商会の業者です。……でも、どうしてそんなことを?」
「夢樹脂は適量なら鎮静薬だが、過剰摂取させれば暴走を引き起こす。だが、渡しただけでは故意かどうかは分からない。量と換気について、誰が何を指示したかを確かめる必要がある」
セドリックは歩きながら、異語局の権限で取り寄せた分厚い書類の束――王立幻獣舎の過去数年分の『危険個体処分台帳』を開いた。
「……ヴァール様、それは?」
「先ほどから気になっていたんだが」
セドリックは足を止め、台帳のあるページを指で叩いた。
「幻獣舎で暴走事故が起き、危険個体として殺処分される。その処分された幻獣の素材は、再資源化規則に従って国庫へ戻るか、あるいは入札にかけられ市場へ流れる。問題は、その落札者の履歴だ」
私は彼の指先が示す項目を覗き込んだ。
「……ローデ商会」
「そうだ」
セドリックは重々しく頷いた。
「過去三年間に王立幻獣舎で起きた七件の暴走事故。その結果として処分された個体の遺体の回収と、素材の安価な買い取りを請け負っていたのは、うち五件でローデ商会が回収を請け負い、七件とも同じ素材取引所へ搬入されている」
背筋に冷たいものが走った。
業者は、テオの善意を利用しただけではない。
幻獣が暴走し、処分されることで、利益を得る者がいる。
それが事故を起こした理由なのか。アルクを救うには、そこを確かめなければならなかった。




