第2話 甘い煙の男
「この子は一つ、嘘をついています」
私の言葉が冷たい石壁に反響し、地下牢は水を打ったように静まり返った。
沈黙を破ったのは、幻獣舎の管理役人の嘲笑だった。
「馬鹿馬鹿しい。自分の管理ミスを幻獣のせいにした挙句、今度は幻獣が誰かを庇って嘘をついているだと? そんな荒唐無稽な言い逃れが通用すると思っているのか、フェルン!」
「言い逃れではありません。現にアルクの羽根は――」
「ええい、黙れ! ヴァール殿、こんな戯言に付き合う必要はありません。さっさと書類を――」
「黙るのはあなただ」
凍てつくようなセドリックの声が、役人の言葉を物理的な力のように叩き落とした。
セドリックは役人へ一瞥もくれず、真っ直ぐに私を見ていた。その深い色の瞳には、先ほどまでの業務的な無関心は消え、正確な事実を測ろうとする静かな光が宿っている。
「まだ、嘘だと決まったわけではない。だが、確かめる理由はある。煙について、ほかに気づいたことは?」
「……はい」
私は小さく頷き、鉄格子の向こうのアルクを見つめた。
「顔と首の羽根に、薄く粘る汚れがあります。翼の先にはありません。昨夜の鎮圧でついた煤とは、匂いも違う。餌が原因なのか、何かに顔を近づけたのか、調べたいんです」
「煙……」
セドリックが手元の記録板に視線を落とす。先ほど彼が訳した『甘い煙』という言葉との符合を確認しているのだろう。
「ですが、上層にあるアルクの舎房は常に換気されています。少し煙を焚いた程度で、暴走に至るほど吸い込むとは思えません」
私は作業着のポケットから、擦り切れた革表紙の小さな手帳を取り出した。
毎日、誰に見せるわけでもなく書き留めていた私的な観察メモだ。ページをめくり、事故が起きる三日前の記録を開く。
「事故の三日前から、アルクの寝る位置がいつもより三十センチほど北側……つまり、通気口の真下へずれていました。白翼獅子は本来、風の通り道で眠るのを嫌がります。それなのにわざわざ通気口の下に移動していたということは、普段と違うものに引かれていた可能性があります。匂いなのか温度なのか、まだ分かりません」
役人が鼻で笑った。
「なんだその手帳は。そんな重要な変化なら、なぜすぐに報告書へ上げなかった! 結局、お前の怠慢が招いた事故ではないか!」
その追及に、私は奥歯を強く噛み締めた。
役人の言う通りだ。私は違和感に気づいていたのに、それを正式な書類にはしなかった。
「……報告しても、どうせ聞いてもらえないと思ったからです」
絞り出すように答えた私の声は、ひどく惨めな響きを持っていた。
「見習いの頃、幻獣の微かな不調を訴えても、先輩や上司には『数値に異常はない』『素人が口を出すな』とあしらわれました。結局、その子は倒れ、責任だけが私に押し付けられた。……だから今回も、私個人の観察メモなんて出しても無視されると、勝手に諦めていたんです。私が責任を恐れて初動を遅らせたことは、事実です。申し訳ありません」
私は手帳を握りしめ、深く頭を下げた。
どんなにアルクを観察していても、それを社会に届く形にしなければ何の意味もない。私が知らせていれば、もっと早く調べられたかもしれない。その機会を、自分で閉ざしていた。
カリッ、カリッ。
硬質な音が響いた。顔を上げると、セドリックが万年筆を走らせていた。
彼は私の謝罪には一切触れず、淡々と尋ねた。
「君の名前の綴りは『LIESE』で合っているか?」
「え……? あ、はい」
「そうか」
彼は書き終えた記録板を、私の方へすっと向けた。
そこには、宮廷異語局の正式な紋章が印字された用紙があった。アルクの翻訳文の下に、流麗な文字でこう記されている。
『担当飼育官リーゼ・フェルンによる行動観察記録:対象個体は発言時に視線を逸らし、前肢の爪を隠す防御姿勢をとった。また顔周りの羽根の劣化、および事故前三日間の睡眠位置の特異な移動から、第三者による吸入物の設置が疑われる。以上は飼育官の観察と推測を区別して記載。煙の設置場所と、発言時の反応が変わる理由を要確認』
私は息を呑んだ。
それは、私の私的な手帳のメモでも、ただの言い訳でもなかった。国家資格を持つ翻訳官が、私の言葉を「専門家の見解」として公的な書類に記載してくれたのだ。
「ヴァ、ヴァール殿! 何を勝手なことを! 一介の下級飼育官の推測など、証拠能力はありませんぞ!」
「観察と推測は分けてある。現場で確かめればいい」
セドリックは静かに、しかし有無を言わせぬ圧力で役人を一蹴した。
「私は言葉を訳す。だが、言葉にならない行動を読むのは私の専門外だ。彼女の観察がなければ、私は正しい翻訳のまま真実を取り逃がすところだった。……フェルン飼育官」
セドリックの深い瞳が、私を射抜く。
「聴取はまだ終えていない。補足調査のために、舎房への立ち入りを申請する。処分時刻は変わっていない。夜明けまでに、再審査を求める根拠を見つけよう」
王立幻獣舎の上層。
地下牢とは打って変わって、高く澄んだ空気が流れるアルクの本来の舎房は、昨夜の暴走の痕跡が生々しく残っていた。壊れた飼葉桶、壁に刻まれた深い爪痕。
現場保存のため立ち入りが制限されていた舎房へ足を踏み入れ、私はまっすぐに通気口の真下へと向かった。
アルクが事故前の三日間、不自然に頭を向けて眠っていた場所。
マルタ飼育長が立ち会い、私は魔力灯を通気口へ差し向けた。
「……奥に、小皿があります」
セドリックが位置を記録してから、飼育長が手袋と鉗子で取り出した。皿には黒く焦げた飴状のものが残っている。脇には、皿を包んでいたらしい紙も挟まっていた。
「夢樹脂に似ている。薬務官に鑑定を頼もう」
背後から覗き込んだセドリックが、わずかに眉をひそめて言った。
「夢樹脂……特定の植物から抽出される、鎮静作用のある香ですね」
「ああ。適量なら幻獣を落ち着かせる薬になるが、過剰に焚き続ければ意識を混濁させ、最悪の場合は幻覚を伴う暴走を引き起こす。火をつけて通気口の奥に置いておけば、外からは見えず、煙だけが室内へ流れ込む仕組みだ」
アルクが言っていた『甘い煙』の正体はこれだ。
ただし、これを持ち込んだ者と、火をつけた者が同じとは限らない。入口に来た人間と、煙を焚いた人間。アルクはその二つを分けて話していた。
「ヴァール様、これを見てください」
私は一緒に回収された包み紙を指差した。
そこには、赤い蝋で押された特有の封印跡が残っていた。王室の紋章でも、幻獣舎の印でもない。三つの歯車を組み合わせたような、見覚えのある刻印。
「これは……処分された危険個体の亡骸を回収していく、外部業者の封蝋です」
私は顔を上げ、セドリックを見つめた。
なぜ、幻獣の死体を運び出す業者の品が、生きているアルクの舎房に隠されていたのか。
「……どうやら、ただの飼育ミスで終わる事件ではなさそうだな」
セドリックの声は低く、事態の奥底に潜む暗い闇を見据えているようだった。




