第49話 一緒にいるための条件
赤紫色に染まった夕暮れの公園。
私の頬を包み込んでいたセドリックの手が、ゆっくりと離れ、彼は真剣な眼差しで私を見つめ返した。
「君自身の、これからの仕事の希望はどうなんだ?」
彼のその問いかけは、私という人間を、そして私の仕事への誇りを誰よりも尊重してくれている証だった。
私と一緒にいるために、君が夢を諦める必要はない。そう言ってくれた彼に、私は迷うことなく自分の思いを伝えた。
「私は……現場に立ち続けたいです」
私は、彼の手をしっかりと握り返して言った。
「初代の幻獣行動鑑定官として、王都の幻獣舎で指示を出すだけじゃなく、地方の保護施設や軍の部隊を直接回りたいんです。現場の飼育員さんたちに直接このやり方を教えて、全国どこにいても、幻獣の声が正しく拾い上げられる世界を作りたい」
それが、行動記録の力を信じ、それを武器にしてきた私の望む未来だった。
地方へ行くとなれば、王都にいる彼とは離れ離れになる時間も増える。恋人同士としては寂しい選択かもしれない。だが、セドリックは少しも嫌な顔をせず、むしろ誇らしげに目を細めた。
「いいと思う。君が教えれば、次はその土地の人が続けてくれる」
彼は深く頷き、隣に並んで座る私の肩を抱き寄せた。
「ならば、私は王都の異語局で、翻訳官養成の責任者としての基盤を盤石なものにしよう。地方でも種別資格を持つ翻訳官と組めるように、派遣と養成を進めたい。原記録と違う意見を中央に持ち寄り、互いに確かめる仕組みも必要だ」
私が現場で前線を広げ、彼が中央で制度を守る。
「私が担当した記録の最終審査は、君以外の方にお願いするんですよね」
「ああ。婚姻後も申告を続ける。同じ案件に関わる必要がある時は、先に配置を相談しよう」
「では、私が王都に戻る日も先に相談します。毎回、仕事が終わったら、では帰れなくなりそうですから」
「耳が痛いな」
彼が笑った。私も笑った。地方にいる間の手紙の頻度を相談して、毎日では配達人が困る、と気づく。二人の家には机を二つ置こう、という話はすぐに決まった。
「一年後くらいに、式を挙げられるだろうか」
「制度が完成したら、とは言わないんですね」
「それでは、いつまでも君を待たせる」
セドリックが私の手を取り直した。
「仕事の進め方も、暮らし方も、決め直すことはあると思う。それでも、私と結婚してくれるか」
「はい。私も、あなたと暮らしたいです」
休暇明け、私たちはそれぞれの上長と、法務院の配置担当に将来の勤務希望を出した。婚姻予定を申告し、評価や昇任の審査に互いが関わらないことも確認した。
家を探すにはまだ早い。そう言いながら、私は王都の地図に、小さな丸を一つつけた。幻獣舎と異語局の中ほどにある通りだった。
それから、季節は巡り、春の温かい日差しが王都を包む頃。
私は王立幻獣舎の広いパドックで、白翼獅子のアルクのブラッシングをしていた。
「グルルゥ……」
アルクは目を細め、気持ちよさそうに私の手に頭を擦り付けてくる。
痩せていた体には肉が戻り、背中の白い羽根もすっかり生え揃っていた。もう、暴走の冤罪を着せられて暗い隔離施設のケージで震えていた面影はどこにもない。
「フェルン主任、手紙が届いているよ」
そこへ、地方施設の視察から戻ってきたばかりのマルタ飼育長が、何枚かの封筒を手にやってきた。
「マルタさん、お帰りなさい。地方の様子はどうでしたか?」
「ああ、あんたが作ったマニュアルのおかげで、随分とやりやすくなったと現場の連中も喜んでいたよ。ほら、これは各地の施設からの報告と写真だ」
マルタ飼育長から手渡された手紙を開くと、そこには私たちがこれまでの事件で関わってきた幻獣たちの『現在』が記されていた。
王立薬庫から別の施設へ移された鏡尾狐のミーネ。怪我の癒えたあの飼育員も、定期的に会いに通っている。新しい担当者の手紙には、「巡回についてくるのは助かるが、落ちた手袋まで巣へ持ち帰る」と困ったように書かれていた。薬棚の鍵は二重にしたそうだ。
偽造翻訳で処分されかけた灰冠狼のルゥ。今も距離を急に詰めずに世話を続けているそうで、大きな物音にはまだ身を伏せる。それでも今では、仲間の狼たちと一緒に日向ぼっこができるまでになったという。
工事現場からの便りには、黒角竜ガロが、渡り始めの橋で顎を地面へつける絵が添えられていた。今は作業員も急かさず、一緒に足元を確かめるのだという。
鈴角鹿のティルは新芽の匂いにつられて母鹿リラの先へ出るようになった。けれど昼寝の時は、まだ母親の腹へ鼻を埋めるらしい。
群唱鳥のキラ、ミミ、ソラには、三羽が並べる止まり木が用意された。手紙の端に、担当者が小さく「三羽ぶんのおかわりの催促が一文で届くので、断りにくい」と書いていた。
国境の飼育係からは、蒼甲狼バルドの絵が届いた。餌桶を嗅いでから、若い狼が顔を寄せる隙間を空けている。別紙の給餌記録には、完食の日が増えていた。
そして、虐待施設から保護された羽耳兎のピナ。利益相反の再検証を乗り越えた彼女は、新しい家族に引き取られ、手紙に同封された写真の中では、子供の膝の上で安心しきったように羽耳を寝かせて眠っていた。
「……みんな、元気そうですね」
写真を見つめながら、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
私たちの作った制度は、単なる紙切れの上のルールではない。こうして、傷ついていた幻獣たちが本来の生きる喜びを取り戻し、平和な日常を送るための確かな盾として機能しているのだ。
「あんたと、ヴァール主任が戦ってくれたおかげさ」
マルタ飼育長が優しく微笑んだ。私はアルクの鬣を撫でながら、静かに首を振った。
「私たちだけの力じゃありません。アイラさんやマルタさん、全国の飼育員さんたちが協力してくれたから、守れたんです」
その日の夕方。
仕事を終え、調査室で帰り支度をしていると、扉が開いてセドリックが入ってきた。
彼も異語局での講義を終えたばかりらしく、手にはチョークの粉が少しついている。
「お疲れ様です、セドリック」
私は彼に向かって微笑んだ。二人きりの時は、役職名や『様』付けではなく、名前で呼ぶことにも随分と慣れてきた。
「ああ、リーゼ。君もお疲れ様」
彼は私の机の前に立ち、少しだけ改まった様子で私の目を見た。
「今日、工房から仕上がってきたものがあるんだ」
そう言って彼がポケットから取り出したのは、濃紺のビロード張りの小さな箱だった。
パカッ、と箱が開かれると、そこには華美な宝石のついていない、シンプルで滑らかな銀の指輪が二つ並んでいた。
「……これは」
「婚約指輪だ」
セドリックは、箱の中から小さな方の指輪を取り出し、私の左手を取った。
「引っ掛かる飾りのないものにした。現場では外して、安全なところに置いてほしい。……受け取ってくれるか?」
「はい……!」
私は震える声で頷いた。
彼の手によって、私の左手の薬指に冷たくて滑らかな銀の輪が通される。派手さはないけれど、私たちの関係のように、実直で嘘のない、とても美しい指輪だった。
私も彼の手を取り、もう一つの指輪を彼の薬指にはめた。
「寸法が合ってよかった」
ほっとした彼の声に、私は笑いながら目元を拭った。
「その心配をしていたんですか」
「もちろんだ。何度も職人に確かめた」
「ぴったりです」
私は指を広げて見せ、それから彼の手に重ねた。
「ありがとう、セドリック」
「ヴァール主任! フェルン主任!」
その穏やかな空気を破るように、調査室の扉がバンッと開いた。
飛び込んできたのは、アイラと、数名の新任研修生たちだった。彼らの腕には、分厚い記録板と資料の束が抱えられている。
「どうした、アイラ。そんなに慌てて」
セドリックが、繋いでいた手をそっと離し、翻訳官の顔に戻って問いかけた。
「地方の保護施設から、至急の案件が送られてきたんです! 対象は南方の沼地に生息する泥潜り蜥蜴なんですが……」
アイラは泣きそうな顔で、分厚いファイルを私たちの机の上に広げた。
「現地の翻訳官が取った音声の逐語訳と、飼育員が送ってきた行動鑑定のチェックリストが、どうやっても噛み合わないんです! 証言では『水が熱い』と言っているのに、行動記録では『寒がって身を寄せ合っている』と……!」
難解な幻獣の言葉と、一見すると矛盾する行動記録。
それはまさに、私たちがこれまで幾度となく直面し、二人で解き明かしてきた『言葉の罠』そのものだった。
私とセドリックは顔を見合わせた。
互いの薬指に光る銀の指輪が、夕陽を受けてきらりと輝く。
「水温を測った時刻と、発言の時刻は同じかな。感覚語の違いもあり得るが、そこから確かめよう」
セドリックが口元に微かな笑みを浮かべ、万年筆を手に取った。
「身を寄せているから寒い、と決めた根拠も聞いてみましょう。現地では誰が続きを担当していますか?」
私も記録板を手に取り、研修生たちに向かって力強く頷いた。
アイラはもう一枚、担当者の意見を添えた紙を出した。若い字で「まだ分かりません」と書いてある。私はその下に、確かめてほしいことを三つ書き足した。
「よし、行こうか」
「はい!」
私たちは並んで、新しい謎が待つ机へと向かっていった。




