第50話 それはもう、訳さなくていい
春の風に、白い羽根が一枚舞った。
私はそれを拾い、作業台の小箱に入れた。抜け替わりの具合を見るために、日付を添えて残している。
「アルク。もう少し、そっちを向いて」
「グルルゥ」
白翼獅子は顔を背けた。左の翼はいいが、右はまだ梳いてほしくないらしい。ブラシを止めると、今度は自分から額を押しつけてくる。
「そこはいいんだ」
鬣の付け根を撫でる。目がゆっくり細くなった。
成獣になった今も、甘え方は変わらない。右の翼には古い傷があり、獣医の診察も続いている。怖いことがなくなったわけではない。それでも、嫌なら顔を背けられる場所で、この子は暮らしている。
「随分、気持ちよさそうだな」
振り返ると、セドリックが柵の外に立っていた。
「私がですか? アルクがですか?」
「両方だ」
手洗いを済ませ、作業用の小箱から指輪を取り出す。私が薬指に戻すのを、彼は黙って待っていた。
私たちは放飼場の隅のベンチに座った。日陰にいると、風はまだ少し冷たい。
「今日の講義はどうでした?」
「火吹き蜥蜴の鳴き声で、若手の意見が割れた。威嚇か、求愛か」
「尾の動きは?」
「君のところの担当者にも、同じことを聞かれたよ。給餌前にだけ出る動きらしい。空腹の可能性も含めて、明日、普段の給餌を観察するそうだ」
「では、まだ答えは出ていないんですね」
「ああ。急いで二つから選ばなくてよかった」
彼は鞄から研修記録を出しかけ、思い直して留め具を閉じた。
「これは明日にしよう」
泥潜り蜥蜴の件も、現地の担当者から返事が来ていた。水温の測定と発声は半日ずれていたそうだ。まず同じ時刻に取り直すこと、「身を寄せた」と「寒がった」を分けて記録すること。次の観察予定は、もう決まっている。
全国試行の記録には、今も訂正が届く。種の違い、個体の違い、担当者の見落とし。分からないまま、次の観察日を待つ欄もある。
私たちの署名が並ばない書類を、別の二人が確かめている。その二人の判断を、また別の人が見直す。
私はもう、すべての欄を自分で埋めようとは思わなくなった。
ただ、ときどき気になって、休みの日にも鞄へ手を伸ばす。今の彼のように。
「家の内覧、週末の午後で予約が取れた」
「地図につけた丸のところですか?」
「ああ。部屋を二つに分けて、机を置けるそうだ。日当たりもいい」
「二つに分けるんですか?」
「隣で私が発音の練習をしていては、君が落ち着かないだろう」
「それは、確かに」
思わず笑った。彼も笑った。
机の場所を相談し、朝食を作る順番を仮に決め、互いに早朝から出る日はパン屋に頼ろう、という話になる。式の招待状はまだ書きかけだ。決めることはたくさんあるが、一つずつなら決めていける。
「地方へ出る前にも、見に行けてよかったです」
「ああ。帰ってくる家を、二人で選びたい」
その言葉が嬉しくて、私は少し黙った。
彼が、机の話の続きを待つように首を傾げる。
「リーゼ?」
「……帰るのが楽しみになりそうだな、と思って」
「行く前から?」
「行く前からです」
セドリックの手が、ベンチの上で私の手に触れた。今度は、どちらも引っ込めなかった。
「キュルルゥ」
白い鼻先が、つないだ手の下へ割り込んできた。
「アルク、重い」
甘えた獅子は聞こえないふりをして、私の膝へ顎を載せた。それからセドリックの方を嗅ぎ、短く二度、鳴いた。
彼の指が止まる。
「なんて言っているんですか?」
「いや。その……」
「私のことですか?」
「半分は」
耳が赤くなっていた。私は彼の顔を覗き込んだ。
「聞きたいです」
セドリックは観念したように息を吐いた。
「『お前は、この人間が来ると甘い匂いになる。さっきまでと違う』と」
「……そうなんですか」
「本人には分からない」
私にも匂いは分からない。ただ、手を離そうとしない彼が、ひどく照れていることは分かった。
アルクは答えを待つように鼻を鳴らした。
セドリックは空いている手で白い額を撫でた。
「彼女といると、嬉しいんだ」
仕事の時より小さな、柔らかい声だった。
胸の奥が熱くなる。アルクはもう一度鳴き、私たちを交互に見た。
「今度は?」
「『それなら、なぜさっき黙った』と聞いている」
私はとうとう笑ってしまった。セドリックは困った顔で、けれど笑いながら、私の方を向いた。
「君からも、何か言ってくれないか」
「では」
私は彼の肩へそっと寄りかかった。
「私も嬉しいです。あなたと、帰る家の話ができて」
つないだ指に、少しだけ力がこもった。
言わなければ分からないことは、これからもある。見ているつもりで見落として、聞き直す日もあるだろう。
そのたびに、こうして隣を向けばいい。
足元では、アルクが大きなあくびをした。膝から顎を下ろし、私たちの靴へ体を寄せて丸くなる。
セドリックが何かを聞き取ったらしく、口を開きかけた。
私は、目を閉じかけた白翼獅子を見た。二人分の足を枕にして、もう動く気はなさそうだ。
「それはもう、訳さなくていい」
彼が笑う。
春の陽が、並んだ二つの指輪と、白い翼を照らしていた。




