第48話 翻訳できない言葉
赤紫色に染まった夕暮れの空が、王都の街並みをゆっくりと夜の色へ沈めようとしていた。
公園のベンチに座るセドリックの横顔は、夕陽の逆光を受けて、その整った輪郭をくっきりと影絵のように浮かび上がらせていた。
彼は先ほどから、何かを言おうとして口を開いては、また閉じるという行動を繰り返している。
その視線は私の瞳を捉えようとして、すぐに気恥ずかしそうに逸らされ、膝の上で組まれた長い指先が、微かな緊張を伝えるように固く結び合わされていた。
「ヴァール様?」
私が小さく声をかけると、彼はビクッと肩を揺らし、咳払いをした。
「あ、ああ。すまない。その、リーゼ……」
セドリックは深く息を吸い込み、意を決したように私の方へ向き直った。
「私は、君とのこれからの関係性について、明確な合意を形成したいと考えている」
「関係性についての、合意ですか?」
「そうだ。我々はすでに交際を宣言した間柄だが、この先の将来について、より強固で……いや、法的な拘束力を前提とするわけではないが、相互の意思を確認した上で、永続的なパートナーシップを築きたいと……」
セドリックの言葉は、まるでどこかの国の複雑な条約文でも読み上げているかのように、硬く、ぎこちなかった。
彼は少し眉間を寄せ、自分の言葉の『不正確さ』に苛立つように首を振った。
「違う。これではまるで業務提携だ。……私が言いたいのは、私は君を、生涯の伴侶として適切に評価し……いや、評価という言葉は上から目線で不適切だ。君の存在が私の人生において不可欠であり、独占的かつ排他的に……」
彼はそこで言葉を切り、深い絶望でも味わうように両手で顔を覆ってしまった。
「……駄目だ。何度考えても、正しい言葉が見つからない」
そのひどく落ち込んだ声に、私は思わず吹き出しそうになるのを必死に堪えた。
七つの幻獣語の資格を持ち、難しい訳語に何晩も向き合ってきた、宮廷異語局が誇る天才翻訳官。
そんな彼が今、自分自身の心という『原文のないもの』を翻訳できずに、完全に行き詰まって迷走しているのだ。
相手に誤解を与えまいと、一切の嘘や誇張を混ぜまいと、真面目に言葉を探しすぎた結果、辞書にも載っていないような四角張った表現になってしまう。
彼がどれほど不器用で、そしてどれほど私のことを真剣に考えてくれているかが、痛いほどに伝わってくる。その姿が、どうしようもなく愛おしかった。
「ヴァール様」
私はそっと彼に近づき、顔を覆っていた彼の手を取り、その口元に自分の人差し指をそっと当てた。
「……リーゼ?」
「あなたはいつも、幻獣の言葉を翻訳する時、『推測を足さない、曖昧なものは曖昧なまま残す』と言っていましたよね」
私は、戸惑う彼の琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「感情に、正確な定義なんてありません。法務文書のような完璧な言葉を探さなくていいんです。……私は、整えられた訳文ではなく、あなたの不完全なままの言葉がほしいです」
私の言葉に、セドリックは少しだけ目を見開いた。
そして、私の指先にそっと自分の指を重ね、ゆっくりと私の手を握りしめた。
彼は深く、長く息を吐き出し、自分を縛っていた『正確さ』という見えない鎧を脱ぎ捨てるように、ふっと肩の力を抜いた。
「……本当に、君には敵わない」
彼は自嘲するように、けれどとても優しく微笑んだ。
「正確な言葉は見つからない。論理も破綻しているかもしれない。……だが、これだけは真実だ」
セドリックは、私の手を握る力を少しだけ強め、もう片方の手で私の頬をそっと包み込んだ。
「私は、君を愛している。……そして、仕事を続ける君の隣で、ずっと一緒に将来を作っていきたい」
それは、飾り気のない、少しだけ震えた声だった。
交際を始めたあの夜に交わした言葉とは違う。もっと深く、私たちの人生そのものを共に歩んでいくための、明確な意思表示だった。
彼自身の、本当の言葉。
「……私もです」
私は、彼の掌の温もりに頬をすり寄せ、心からの笑顔を返した。
「私も、あなたと一緒に、私たちの将来を作っていきたいです」
私の答えを聞いたセドリックの瞳が、夕陽の光よりも眩しく揺れた。
彼はゆっくりと顔を近づけ、私の唇に、そっと自分の唇を重ねた。
あの夜より、少し長いキスだった。私は彼の袖をつかんだまま、目を閉じた。
将来のことは、まだ何も決まっていない。それでも、一緒に決めていけるのだと思った。
やがて、ゆっくりと唇を離したセドリックは、私の額に自分の額をこつんと当てた。
「……ありがとう、リーゼ。私の拙い言葉を受け止めてくれて」
「拙くなんてありません。私にとって、世界で一番嬉しい言葉でした」
私たちが幸せな余韻に浸りながら見つめ合っていると、セドリックは不意に少しだけ表情を引き締め、私の背中に回していた腕を少し緩めた。
「私は君と結婚したい」
彼は言い、今度は言い直さなかった。
私が答えようとすると、握った手にそっと力がこもった。
「その前に、聞いておきたいことがある。私は王都で教える仕事を続けたい。君は、これからどこで働きたい?」
私をどこへ連れていくかではなく、私がどこへ行きたいか。彼はそれを尋ねてくれた。
「私と一緒にいるために、君が夢を諦める必要はない。……リーゼ、君自身の、これからの仕事の希望はどうなんだ?」
私はつないだ手を見つめ、それから顔を上げた。
言ってみたかった願いがある。彼の隣を失うのが怖くて、まだ言葉にしていなかった願いが。




