第47話 仕事のない一日
抜けるような青空が広がる、王都の目抜き通り。
行き交う人々で賑わう大時計の下で、私は所在なく自分のスカートの裾を直していた。
今日は、マティアス審理官から強制的に与えられた『三日間の特別休暇』の初日である。
待ち合わせ時刻の少し前。人混みの中から、見覚えのある長身のシルエットが現れた。
「待たせたな、リーゼ」
「あ……いえ、私も今来たところです」
歩み寄ってきたセドリックを見て、私は思わず言葉を失った。
宮廷異語局の詰襟や、彼がいつも羽織っているあの重苦しい黒い外套ではない。今日の彼は、仕立ての良い柔らかな灰色のジャケットに身を包んでいた。少しだけラフに崩した首元のタイが、彼の整った顔立ちをいつもより幾分か穏やかに見せている。
彼の方もまた、私の姿を見て少しだけ目を瞬かせた。
私は今日、幻獣舎の泥臭い実務服ではなく、淡い青色のワンピースを着てきた。動きやすさよりも、少しだけ可愛く見えることを優先して選んだ一着だ。
「……よく、似合っている」
セドリックが、視線を少し泳がせながら低く呟いた。
「あ、ありがとうございます。ヴァール様も……その、とても素敵です」
顔が熱くなるのを感じながら、私は俯き加減で答えた。
互いに見慣れない私服姿。仕事の場ではない、王都の真ん中での待ち合わせ。
これではまるで、普通の恋人同士のデートのようではないか。
いや、事実私たちは恋人同士なのだが、それをこうして真っ昼間の市街地で実感させられると、どうしようもなく照れくさかった。
「さて、今日はどうしようか」
セドリックが、少しだけぎこちない手つきで自分の前髪を掻き上げた。
「ええと……とりあえず、市場の方へ歩いてみませんか? 美味しい屋台もたくさん出ている時間ですし」
「そうだな。そうしよう」
私たちは並んで歩き始めた。
しかし、五分もしないうちに、私たちの間には重く不自然な沈黙が落ちていた。
仕事の合間なら話せるのに、今日は何か特別な話をしなくては、と思うほど言葉が出ない。
「あの、リーゼ。先日の黒角竜の行動パターンの分類だが……」
「ヴァール様」
私は彼を見上げて、人差し指を立てた。
「今日は『仕事のない一日』です。仕事の話や、専門用語は禁止にしましょう」
「……禁止、か」
「はい。……たぶん。少なくとも今日は、ほかのお話もしてみたいです」
「わかった。努力しよう」
セドリックは真面目な顔で頷いた。
だが、その『禁止ルール』を設けたことで、事態はさらに悪化した。
仕事の話を取り上げられた途端、私たちは「では一体何を話せばいいのか」が完全にわからなくなってしまったのだ。
「今日の、風は……少し冷たいな」
「そうですね。冬が近づいていますから」
「……」
「……」
会話が続かない。
普段なら、わずかな視線の動きや沈黙の質だけで、相手がどんな論理を組み立てているのかを理解し合えるというのに。仕事という共通の目的がないと、途端にどう接していいか迷ってしまう。
私たちは、お互いの手の甲が触れそうになるたびにビクッと体を離し、ぎこちない歩調のまま市場の通りを進んでいった。
そんな息の詰まるような散歩を続けていた時だった。
「ギャアアアッ! キィィィッ!」
前方の広場から、鋭い甲高い鳴き声と、人々の悲鳴が聞こえてきた。
「何かあったようですね」
「行ってみよう」
私たちは無意識のうちに早足になり、人だかりの中心へと向かった。
広場の中央には、ひっくり返った商人の荷馬車があった。そこから逃げ出したらしい小さな幻獣が、荷箱の上に陣取って周囲を威嚇していた。
背中に半透明の皮膜を持つ、猫ほどの大きさの爬虫類型の幻獣。
「風切りトカゲだ」
セドリックが鋭い目で状況を把握した。
「あれは高山地帯に生息する種族で、ひどく神経質だ。見知らぬ人間に囲まれてパニックを起こしているな」
「ええ。尻尾の先が赤く変色しています。極度の興奮状態ですね。このままでは魔力を使った突風で、周囲の人たちに怪我をさせてしまいます」
私は即座に相手の行動を分析し、手袋の感触を確かめた。
まず人を遠ざけ、翻訳できる者を呼び、刺激を一つずつ減らす。体が、いつもの手順で動きかけた。
「私が前へ出よう」
セドリックが一歩踏み出そうとした、その時だった。
「下がってください! 対象個体を刺激しないで!」
人混みを掻き分けて、王立幻獣舎と宮廷異語局の制服を着た二人の若い男女が駆けつけてきた。
調査室で学び、実地研修として市内の巡回を始めた二人だった。翻訳官はこの種の資格をすでに持っている。後ろには、指導役の当番飼育官もついていた。
「彼らは……」
私とセドリックは顔を見合わせ、同時に足を止めた。
研修生の飼育官は、緊張で震える手で『行動鑑定チェックリスト』のバインダーを開き、風切りトカゲの姿勢を懸命に確認している。
「ええと、対象は尾を高く上げ、体表を赤く変色……刺激に反応しています! まず三メートル離れて、通路を空けてください!」
飼育官の指示で、周囲の野次馬たちが後ずさりをする。
「キィィ! ギャウゥ!」
風切りトカゲが鳴き声を上げる。研修生の翻訳官は、目を閉じて必死にその魔力波形を拾おうとしていた。
「……『高い音。うるさい。光が眩しい』と言っています! おそらく、周囲の人々の悲鳴と、荷馬車の金属部品に反射する太陽光にパニックを起こしているんだと思います!」
研修生たちは、私たちが徹夜で作ったマニュアルの教え通りに、自分たちの直感や推測ではなく、客観的な事実から原因を特定しようとしていた。
「布で荷馬車の金属部分を覆って! 皆さん、大声を出さないでください!」
その手順は、少し不器用で、時間がかかっていた。
つい次の指示を言いたくなる。けれど、退路は空き、指導役は野次馬の動きを見ていた。危険が増すようなら助けに入れる距離だった。
でも、私たちは互いに目配せをし、その場から一歩も動かずに、ただ静かに彼らの背中を見守ることを選んだ。
私たちがここで手を出してしまえば、彼らはいつまでも『凄い先輩たちの後ろ姿』に頼り続けることになる。
「……待とう。今、反応を確かめている」
セドリックが、小さく呟いた。
やがて、光と騒音が遮断されたことで、風切りトカゲは徐々に体表の赤みを引かせ、大人しく研修生が差し出したケージの中へと入っていった。
「よしっ!」
研修生たちが安堵の息を吐き、ハイタッチを交わしている。
周囲の野次馬たちからも、まばらな拍手が起こった。
「見事な対応だったな」
騒動が完全に収まった後、セドリックがゆっくりと歩み寄り、彼らに声をかけた。
「ヴァール主任! フェルン主任!」
私服姿の私たちに気づき、研修生たちは慌てて姿勢を正した。
「お疲れ様でした。光を遮ったあと、すぐ近づかずに待ったのがよかったですね」
私が微笑みかけると、二人の研修生はパッと顔を輝かせた。
「ありがとうございます! あの、私たち、主任たちのように上手くはできませんでしたが……でも、手順書のおかげで、この子が何を怖がっているのか、ちゃんとわかりました!」
その誇らしげな言葉を聞いて、私は胸の奥が熱くなるのを感じた。
二人は記録板を開き、さっそく振り返りを始めていた。訳された「光」と、布を掛けたあとの姿勢の変化。別々に書かれた記録が、指導役の前で一つの経過になる。
私は持ち上げかけた手を下ろした。あそこへ行って、書き足す必要はない。
セドリックの手が、その手を取った。
「屋台を見に行く途中だったな」
「……串焼き、まだ残っているでしょうか」
「調べよう」
今度は二人で声を立てて笑った。
研修生たちと別れ、私たちは夕暮れの公園のベンチに腰を下ろした。
空は赤紫色に染まり、遠くで帰路につく人々の影が長く伸びている。
「……結局、仕事の話になってしまいましたね」
私が苦笑いしながら言うと、セドリックも小さく笑った。
「仕方がない。我々の生活は、あの仕事と切り離せないものだからな。だが……不思議と、悪くない気分だ」
セドリックは、ベンチの背もたれに深く寄りかかり、リラックスした様子で空を見上げた。
先ほどまでのぎこちなさは、もうどこにもなかった。
後進の成長を見届け、自分たちの役割が一つ上の段階へと進んだことを実感したことで、ようやく私たちの中にあった「仕事のパートナー」としての無意識の緊張が解けたのだ。
これからはもう、焦って現場に飛び出さなくてもいい。こうしてゆっくりと、肩を並べて同じ空を眺める時間を持てる。
「……リーゼ」
不意に、彼が姿勢を正し、私の方へ向き直った。
「はい?」
セドリックの表情は、どこか切羽詰まったような、ひどく真剣なものだった。
彼は何かを決意したように口を開き――しかし、すぐに閉じた。
視線を私の瞳から外し、手元の空間を彷徨わせる。その長い指先が、落ち着かない様子で膝の上を滑っている。
「どうしたんですか、ヴァール様」
「いや……その……」
彼は言葉を飲み込み、もう一度深く息を吸った。
まるで、かつて出会ったばかりの頃、難解な未知の幻獣語を前にして、どうしても正確な訳語が見つからずに苦悩していた時のようだ。
彼は今、自分の心の中にある確かな思いを私に届けるために、借り物でも、誰かの真似でもない、自分だけの『本人の言葉』を必死に探している。
私は急かすことなく、彼がその言葉を見つけ出すのを、ただ静かに待つことにした。




