第46話 二人でなくてもできる
「『なんとなく怒っているように見えた』。気づきとして書いてかまいません。ただし、何を見てそう思ったのか、その次に書いてください」
王立幻獣舎の講義室。私は黒板の前に立ち、真新しい実務服に身を包んだ新人飼育員たちに向かって声を張った。
「対象個体が威嚇していると判断したのなら、その根拠を『客観的な事実』として書き残してください。例えば、尾の角度、毛の逆立ち具合、あるいは直近三日間の給餌量や睡眠時間の変化。……あとから別の担当者が、その判断を確かめられるように書くこと。それが、幻獣行動鑑定官の仕事です」
私の言葉に、新人たちは真剣な顔で手元の『行動鑑定チェックリスト』にメモを取っている。
彼らは、全国の保護施設や地方の役所から集められた、行動鑑定の第一期研修生たちだ。
ヘルマンの起訴後も、押収された帳簿の調査は続いている。その傍らで始まった全国試行には、困難な症例も、互いに食い違う記録も届く。まず必要になったのは、教える人を育てることだった。
私は、その初代「幻獣行動鑑定官」の主任に任命された。
かつて、「どうせ誰も聞いてくれない」と諦めて、自分一人で幻獣の痛みを抱え込もうとしていた私が。今は、私が見落としたものを誰かが拾えるように、記録の取り方を教えている。
「フェルン主任。教材用の過去の飼育日誌、整理が終わったよ」
講義の休憩時間、マルタ飼育長が分厚いファイルの束を抱えてやってきた。
「ありがとうございます、マルタさん。助かります」
「いいんだよ。あんたが作ったこの基準は、アタシたち古参の飼育員の長年の経験を、確かめ直せる形にしてくれた。これを全国に広めるのは、王立幻獣舎にとっても誇りだからね」
マルタさんは私の肩をぽんと叩き、優しく目を細めた。
私が行動鑑定の教育に奔走しているのと同じ頃。
セドリックもまた、宮廷異語局において、翻訳官養成の第一線に立っていた。
彼は七つの資格を持つ自身の経験を暗黙知のままにせず、種族ごとの魔力波形の違いや文法の法則を、聴紋の素質と種別資格を持つ者が学べるように体系化する作業に追われている。彼の『推測を足さない、曖昧さは曖昧なまま残す』という職業倫理は、これからの翻訳官たちが必ず守るべき鉄則として、局内に浸透しつつあった。
お互いがそれぞれの教育業務の責任者となったことで、私たちには一つの大きな変化が訪れていた。
以前のように、二人揃って同じ事件の現場へ行き、バディとして記録を作ることが、ほとんどなくなってしまったのだ。
夕暮れ時。
講義を終えた私が調査室に戻ると、すでにセドリックが机で書類整理をしていた。
「お疲れ様です、ヴァール様」
「ああ、お疲れ様。リーゼ」
彼は万年筆を置き、柔らかい眼差しで私を迎えてくれた。
「今日の講義はどうだった?」
「皆さん、とても熱心です。特に、黒角竜のような非音声種の行動鑑定には興味津々でした」
私は彼の向かいの席に座り、今日提出された研修生たちのレポートを広げた。
「そちらはどうですか?」
「アイラがよくやってくれている。担当できる種では主訳も任せているよ。私と利害のない案件を選んで、研修用の記録を見せてもらった」
セドリックは、アイラが作成した『幻獣供述記録』の束を私に示した。
そこには、アイラ・ベル翻訳官と、私ではない別の行動鑑定官の署名が並んでいる。
「ここ、訳し切れなかった箇所を残してありますね。観察担当の異論も」
私はその記録を読み、深く感心した。
私なら書き添えたいと思う箇所もあった。それでも、何を見て、何を保留したかが読める。私たちがいなくても、記録を確かめ合う人がいる。
それは間違いなく、私たちが最も望んでいた、制度の独り立ちだった。
「……私たちが休んでも、この机は止まらないんですね」
私は手元の書類を揃えながら、ぽつりとこぼした。
「ああ。私たちの仕事は、ようやく個人の手を離れて、社会のものになった」
「……はい」
私は頷きながらも、自分の胸の奥に、ほんのわずかな空洞のような寂しさが生まれていることに気づいていた。
彼は言葉を訳せる。私は言葉のない行動を読む。
私たちは、自分一人では届かない真実の半面を、互いの能力で埋め合うことで繋がっていた。彼には私が必要で、私には彼が必要だった。
でも、別の二人が別のやり方で、同じ仕事を続けてくれる今。
仕事という絶対的な理由において、私が彼の隣にいなければならない必然性は、薄れてしまったのだ。
「リーゼ」
不意に、彼が席を立ち、私の椅子のすぐ傍らへとやってきた。
見上げると、セドリックは私の心をすべて見透かしたような、深く静かな瞳で私を見つめていた。
「……少し、寂しい顔をしているな」
「あ……いえ、そんなことは。ただ、私がいなくても、あなたの隣には頼れる人がいるんだなと、そう思って……」
「そうだな。仕事のパートナーとしての、お互いの『絶対的な必要性』はなくなったのかもしれない」
彼は私の言葉を否定せず、肯定した。
だが、その声には微塵の冷たさもなかった。
「だが、一緒にいる理由が『仕事上必要だから』ではなくなったということは……」
彼はゆっくりと手を伸ばし、私の頬にそっと触れた。
「これからは、純粋に『一緒にいたいから』という理由だけで、私は君の隣にいられるということだ」
私の胸が、大きく高鳴った。
「明日の夕食は、一緒にどうだろう。相談する事件がなくても」
私は彼の手に頬を預けた。
「ありますよ。相談」
彼が少し身構えたので、笑ってしまった。
「どこのお店へ行くか、です」
「……はい。私も、あなたの隣を選びます」
私は彼の手を重ね、心からの笑顔を返した。
夕陽に照らされた調査室には、命懸けで事件を追っていた頃にはなかった、穏やかで満ち足りた幸福な時間が流れていた。
……その、翌日のことである。
「ヴァール翻訳官、フェルン鑑定官。制度の立ち上げ、誠にご苦労だった」
法務院のマティアス審理官が、分厚いファイルではなく、一枚の軽い羊皮紙を持って調査室を訪れた。
「両部署の上長から預かってきた。来週の頭から三日間、特別休暇だ。現場は研修担当と当番の資格者に引き継ぐように」
「休暇、ですか?」
セドリックが怪訝な顔をした。
「そうだ。管理院からの嫌がらせで調査室が暫定停止されていた期間も、君たちは徹夜で証拠集めをしていたのだろう。たまには休んで、二人でゆっくり英気を養いたまえ。……これは命令だぞ」
マティアス審理官は、少しだけ口角を上げて笑い、さっさと部屋を出て行ってしまった。
残された私とセドリックは、ぽかんとした顔で、机に置かれた『休暇許可証』を見つめた。
「……三日間の、完全な休日」
セドリックが、まるで解読不能な古代語の文献でも見るような目で、その羊皮紙を睨んだ。
「ええと……お休みですね」
「ああ。休みだ」
私たちは顔を見合わせた。
思えば、私たちが出会ってから今日まで、常に理不尽な事件や危険個体の処分が迫るヒリヒリした状況の中にいた。
昼食も、先ほど決めた夕食も一緒にできる。でも、朝から晩まで予定のない日は初めてだった。
「…………リーゼ」
セドリックが、かつてないほど真剣な、まるで国家の危機に直面したかのような深刻な表情で私に問いかけた。
「完全な休日において、恋人同士とは……一体、どのような行動をとるのが『正解』なんだ?」
「…………わかりません」
幻獣の嘘を見抜き、国境の危機を救い、国家の巨大な腐敗を暴いた私たち。
だが、ただの「休日」という、あまりにも平和で未知なる難題の前に。
私たちは二人揃って、完全に思考を停止させていたのだった。




