第45話 声を持つことと、人になること
アルド・ヘルマン資源監督官が証言台に叩きつけた黒いファイル。
そこから引き抜かれた数枚の調書には、被害の状況と、当時の対応が記されていた。
「五年前、南部の牧場で起きた惨劇だ。長年『温厚で従順だ』と記録されていた土這い竜が、突如として暴走し、飼育員とその家族を惨殺した」
ヘルマンは、傍聴席に見せつけるようにその痛ましい記録を掲げた。
「幻獣は、人間ではない。どれほど言葉らしきものを発しようと、どれほど人間の言葉を理解しているように見えようと、彼らは本質的に、人間の法や倫理では決して縛ることのできない『獣』なのだ」
ヘルマンの低く重い声が、大審理室の空気を支配していく。
「そんな彼らに、人間と同じように『声』を持たせ、法廷の証人として扱うだと? そんなことをすれば、いずれ獣の嘘や気まぐれによって無実の人間が罰せられ、人命よりも獣の権利が優先される恐ろしい事態に陥る。……彼らを人間扱いすることは、国家の安全と秩序を根底から破壊する狂気だ!」
傍聴席の貴族たちから、どよめきと賛同のざわめきが波のように広がった。
「その通りだ」「獣の言葉を法律に持ち込むなど、危険すぎる」
ヘルマンは杖をつき、私とセドリックを薄笑いを浮かべて見下ろした。
「君たちのように、幻獣を愛するあまり過度な擬人化をしている者には、国家を背負う責任の重さは理解できまい。彼らは法の人格を持たない『資源』であり、我々人間が厳格に管理・処分すべき対象なのだよ」
幻獣を人間と同等に扱うことの危険性。
それは、幻獣に携わったことのない一般の人間が抱く、最も根源的な恐怖だった。ヘルマンは私たちの「公正さ」を崩せないと悟るや否や、社会全体の「恐怖」を煽ることで制度を潰しに来たのだ。
「その調書を、読ませていただけますか」
ヘルマンが眉を上げた。私は手を差し出したまま待った。
係員を通して渡された紙を開く。飼育員と家族の名が、被害者の欄に並んでいた。アルクを守りたいという思いで、その行を飛ばしてはいけなかった。
「この土這い竜が、なぜ人を襲ったのか。今の私には分かりません。『温厚で従順だった』という記録も、犠牲になった方々を守れなかった。そこを否定するつもりはありません」
紙を伏せず、証言台に置いた。
ヘルマンが問い返した。
「ならば、獣の言葉に何を託す?」
「安全の保証は託しません。目の前に危険があれば、人を逃がし、幻獣を隔離する。言葉を聞くまで対応を待てとは言いませんし、必要な処分を禁じてほしいとも言いません」
審理室の奥で、誰かが身じろぎした。
「ただ、普段と何が違ったのか、何を根拠に危険だと判断したのかは残してほしいんです。分からないことも、そのまま。次に同じ場所で働く人が、『温厚だから大丈夫』の一言だけに頼らずに済むように」
私は調書から顔を上げた。
「幻獣に人間と同じ法的人格を与えてほしい、という話ではありません。言葉も行動も確かめるための情報として残し、人も幻獣も危険から遠ざけたいんです」
私の言葉を引き取るように、セドリックが一歩前に進み出た。
「フェルン鑑定官の言う通りだ。幻獣の声を証拠として採用するのは、彼らに人間と同等の人権を与えるためではない」
セドリックは、私たちが徹夜でまとめ上げた『幻獣供述記録』の試案を高く掲げた。
「声が発せられたことは記録できる。ただ、その内容が本当かどうかは別です。物証と同じ性質だとは言いません。記憶も、翻訳も間違い得るから、観察と他の証拠で検証するのです」
「検証と称して、獣の気まぐれを物証に並べるつもりか!」
「同じではありません。だからこそ我々は、翻訳された言葉をそのまま真実とするのではなく、行動鑑定と物証の三点が揃った場合のみ、『補助証拠』として採用するという極めて抑制的な制度を提案しているのです」
セドリックの氷のように冷徹で、論理的な声が、ヘルマンの煽った恐怖を静かに鎮めていく。
「聞き取れる有益な情報を、『獣のものだから』という偏見だけで初めから切り捨てること。それこそが、法と司法の怠慢であり、結果的に国家の利益を損なうものです」
セドリックは最後に、証言台に積み上げられたヘルマンの不正を示す『人間の証拠』の山を指し示した。
「獣を擬人化し、神聖視しているわけではない。我々はただ、事件を調べる際に、聞き取れた情報を検証できる形で残したいのです。採用できない発言もあります。それは、先ほどお示ししました」
審理室は、水を打ったような静寂に包まれた。
幻獣を守りたい気持ちだけでは、人の安全への懸念に答えられない。隔離や治療、再審査を続けながら、聞き取れる情報を捨てない。そのための限定案だった。私とセドリックが提示したその『限定的な補助証拠』という概念は、法務院の役人たちの間に深い納得を生み出していた。
「その限定を、試案に明記するように」
マティアス審理官が木槌を鳴らした。
「安全上の措置を妨げず、発言だけで有罪や安全を決めない。異なる資料と検証できる補助証拠として扱う案を、国王評議会へ上申する」
記録係が書き終えるのを待ち、彼は制度試案の冊子を閉じた。
「ヘルマン監督官の不正の疑いについては、刑事担当部門へ資料を引き継いでいる。以後の手続きは、そちらの判断に従う」
扉の脇から、治安維持局の捜査官が進み出た。手には別の部署の印がある令状を持っていた。
「アルド・ヘルマン。特例契約をめぐる不正と、仲介人を通じた利益供与の疑いで、拘束します」
捜査官が令状を示すと、衛兵たちがヘルマンの両脇を固めた。
「馬鹿な……私が、こんな獣の戯言を追う小童どもに……!」
ヘルマンは杖を落とし、顔を歪めて叫んだが、もはや彼の声に同調する者は誰一人としていなかった。衛兵の後ろで、調査担当が証言と帳簿を封印していた。これで裁判が終わるわけではない。それでも、処分を命じる席から、彼を降ろすことができた。
「……終わりましたね」
審理が閉会し、人々が去っていく大審理室で、私は長く張り詰めていた息を吐き出した。
「ああ。私たちの勝ちだ、リーゼ」
セドリックが、私の傍らに来て優しく肩を抱いてくれた。
そして、法務院の役人が一枚の書類を持って私たちに近づいてきた。
「フェルン鑑定官。先ほど、管理院の再審査局から通達がありました。白翼獅子アルクの危険個体再指定は、虚偽記録の除外と、独立した担当者の現行評価に基づき、正式に『撤回』されました。治療と定期観察は続けます」
「アルクが……!」
私は両手で顔を覆い、堪えきれずに涙を溢れさせた。
助かった。最初に出会い、私を救ってくれたあの白翼獅子を、今度は私たちが、自分たちの力で守り抜くことができたのだ。
隔離施設へ着いた時には、窓の高いところまで夕陽が差していた。
担当者が面会の許可を確かめ、私たちを収容区画へ案内してくれた。
「明朝、王立幻獣舎へ戻す予定です。今日は少し疲れていますから、柵の外から、短い時間でお願いします」
私は頷き、鉄格子の手前で膝をついた。
アルクは奥に伏せ、右の翼を体へ寄せていた。私の足音に耳が動く。
掌を二度、軽く叩いた。あの日と同じ、手入れを始める時の合図だ。
白い頭が持ち上がった。前肢を伸ばし、一歩ずつ近づいてくる。私は手を伸ばさず、そこで待った。
「……帰る場所、なくなってないよ」
鼻先が柵の隙間から出て、掌へ温かい息がかかった。アルクは私の匂いを嗅ぎ、額をゆっくり押しつけた。
撫でようとした指が震える。翼には触れず、鬣の間へそっと差し入れた。
「干し草も、いつものブラシも、ちゃんとあるから」
途中から声にならなくなった。アルクは目を細め、私が手を止めると、もう一度額を押した。
隣のセドリックは何も言わなかった。ただ、彼が差し出したハンカチを受け取る時、彼の指も冷たくなっていると分かった。
施設を出たあと、馬車の中で私は彼の肩に寄りかかった。
「……ヴァール様が別の部署に行かなくて、本当に良かったです」
「私もだ。まだ、君と続けたい仕事がある」
彼は私の髪をそっと撫でた。
掌には、アルクの額の温かさが残っていた。
それから、数週間の時が流れた。
ヘルマンは罷免・起訴され、管理院と商会の関係者への捜査は続いた。幻獣証言調査室の暫定停止も解かれた。国王評議会は、対象種と担当資格、第三者確認、記録の保存を条件に、供述記録を補助証拠として扱う全国試行を承認した。発言だけで有罪にしないこと、反対資料を省かないことも明記された。
よく晴れた朝。
調査室の机で書類を整理していた私たちの耳に、扉をノックする控えめな音が聞こえた。
「入室を許可する」
セドリックが応じると、重い扉が開き、宮廷異語局の深い緑色の制服を着た若い翻訳官と、王立幻獣舎の実務服を着た若い飼育官の二人が、ひどく緊張した面持ちで入ってきた。
「ほ、本日よりこちらに配属されました! よろしくお願いいたします!」
彼らの手には、私とセドリックが徹夜で作った、あの分厚い『作成手順および行動鑑定チェックリスト』のマニュアルがしっかりと抱えられている。
彼らは、私たちが教え、導くべき『新しい研修生』たちだ。
セドリックの圧倒的な能力がなくても。私の観察眼がなくても。
訓練を受けた者が記録を引き継ぎ、分からない箇所や違う結論を、調べ直すことができる。私たちの関係が、特別な二人だけの特権から、社会の『制度』へと生まれ変わった瞬間だった。
「ようこそ、幻獣証言調査室へ」
私は立ち上がり、セドリックと顔を見合わせて、新しい仲間たちに向かって温かく微笑んだ。




