第42話 危険を作る制度
法務院の資料室の窓の外が、しらじらと夜明けの色に染まり始めていた。
私たちは机の上に山積みにした王立幻獣舎の過去の記録と睨み合いながら、一睡もせずに事実の洗い出しを続けていた。
「……見つけました、ヴァール様」
私は赤インクのペンを置き、手元の書類をセドリックの方へ押しやった。
「給餌と排泄は安定していました。ただ、それだけで威嚇がなかったとは言えません。決め手は、移送時刻です」
私は三枚の記録を並べた。
「旧舎房で暴れたとされる夕刻、アルクは医務舎にいました。搬送係、獣医官、交代の飼育員が別々に記録しています。前後の日も確かめましたが、記載に合う出来事はありません」
セドリックは原本の綴じ穴を確かめた。
「この日誌だけが後から差し替えられている。保管係が受け取った時の頁数と、今の頁数も違う」
調査担当が戻り、飼育員の聴取結果を置いた。
退職した飼育員は、届け出ていた親族宅で見つかった。隠れて逃げていたのではなかった。
「監督官の書記から、古い用紙を清書し直すよう頼まれた、と話している。異常行動の文はその原稿にあった。本人は現認していない」
渡された原稿は、捨てられずに残っていた。清書代という名目の受取書とともに、提出されたという。
「送金記録も、捜査担当が照合している」
セドリックが続けた。
「偽翻訳事件から調べていた仲介人の口座だ。清書代の支払いと、ヴェルク商会側からの入金が繋がった。清書しただけだという説明も、そのままは受け取らず調べるそうだ」
資料を運んできた職員が、別舎の担当者からの短い連絡も置いていった。
『アルクは水を飲んだ。右翼の手入れでは体を引いたため中止。獣医官へ引き継いだ』
私はその二行を二度読んだ。水を飲めたことに息をつき、紙を机の端へ置く。今も、あの部屋で世話を受けながら待っている。
所在の矛盾と、差し替えられた原稿。
この二つがあれば、アルクの危険個体再指定の根拠を完全に崩すことができる。
「よかったです……これで、アルクは助かりますね」
私は胸を撫で下ろした。
だが、セドリックの表情は依然として険しいままだった。
「アルクの処分は止められる。だが、なぜアルクが『二度も』危険個体にされかけたのか。その根本的な理由を解き明かさなければ、ヘルマンの息がかかっている限り、何度でも同じことが起きる」
セドリックは立ち上がり、壁際のキャビネットから分厚いファイルの束をいくつも抱えて戻ってきた。
「これは、過去数年間に王都および地方で『危険個体』として処分された幻獣たちのリストだ。管理院が国境事件を口実に再審査を強行したというのなら、我々も過去の記録をすべて遡って検証しよう」
私たちは、その膨大なリストと過去の事件記録を照らし合わせ始めた。
ページをめくるごとに、私たちの頭の中で、これまでの事件の点と線が恐ろしい精度で繋がり、一つの巨大な絵を描き出していった。
「……第一の事件で、アルクの舎房の通気口で焚かれていた『夢樹脂』」
私が呟くと、セドリックが応じる。
「ローデ商会も、危険指定後の素材を狙っていた。ただ、今回の指示系統との繋がりは、まだ確かめられていない。同じ市場を使っただけでは、共謀の証拠にならない」
私は夢樹脂の資料を脇へ分けた。
「薬庫の事件も別の卸でしたね。今回の指示系統へは入れないでおきます」
その資料も分けてから、私はヴェルク商会の納入控えを出した。
「こちらは、国境の要塞で、蒼甲狼バルドたち戦獣を狂わせた『烈香』ですね」
「そして、灰冠狼ルゥを処分待ちに追いやった、私の名義を騙る『偽翻訳』。今回アルクに仕掛けられた『不自然な飼育記録』の捏造……」
ここから先は、似た手口ではなく、同じ送金先や契約へ繋がる資料を並べていく。
「危険指定された個体は殺処分され、その素材は『再資源化規則』に則って市場へ払い下げられる」
セドリックは、リストの横に市場の落札記録を並べた。
「見てみろ。事故誘発や偽記録で処分された希少な幻獣の素材は、偽造が確認された複数の案件で、他社への入札通知が出されず、ヴェルク商会へ安値で渡っている。国境では素材売却に加え、代替戦獣の販売でも利益が出る仕組みだった」
私は、そのずらりと並んだヴェルク商会の名前に息を呑んだ。
少なくとも、いま机に並べた偽記録の案件は、別々の不正として片づけられなかった。
これは、国家の『危険個体制度』の欠陥を利用し、無害な幻獣を合法的に殺して素材を安く買い叩くための、巨大な利権のシステムだったのだ。
幻獣が言葉を持たないこと、あるいは言葉を発しても「正式な証拠にならない」という法的な弱さを最大限に悪用した、完璧な搾取の構造。
「……なんて、酷い」
私はリストに載っている処分された幻獣たちの名前を見つめた。
全ての個体について、当時の状態を確かめ直すことはもうできない。それでも、作られた供述を根拠に処分された名前が、ここには幾つもあった。
「彼らは……声を聞いてもらえなかったんです」
私の手が、震え始めた。
「自分がやっていないと言っても、誰も信じてくれない。記録を書き換えられ、罪を押し付けられて、自分の居場所を奪われる……」
それは、アルクの暴走の責任を押しつけられ、解雇を告げられた時の私と重なった。
私はあの時、アルクの言葉とセドリックの翻訳に救われた。けれど、リストに載っているこの子たちは、救われることなく、暗い檻の中で絶望しながら死んでいったのだ。
悔しさと、怒りと、深い悲しみが入り混じり、私は唇を強く噛み締めた。
「リーゼ」
不意に、私の震える両手を、セドリックの大きくて温かい手が優しく包み込んだ。
顔を上げると、彼の深い琥珀色の瞳が、私を真っ直ぐに見据えていた。
「君は、聞いてもらえなかった記録を残した。あの手帳を捨てなかった。今、同じように残っているものを、ここから拾おう」
彼は私の手を握る力を少しだけ強めた。
「君がアルクの無実を信じて、私の翻訳に反論し、声を上げたあの日から。……我々の戦いはずっと、この理不尽な構造を壊すためにあったのだ」
彼の言葉が、冷え切っていた私の心に、確かな熱と勇気を灯してくれた。
そうだ。私はもう、あの時のように一人で絶望して黙り込む見習い飼育員ではない。
隣には彼がいて、私たちには共に作り上げた『幻獣供述記録』という、真実を証明するための武器があるのだ。
「……はい」
私は深く頷き、彼の手をしっかりと握り返した。
「あとは、この巨大なシステムを統括している『頭』を落とすだけだ」
セドリックは立ち上がり、すべての過去の処分台帳と、ヴェルク商会への特例的な素材払い下げの契約書を一つに束ねた。
「アルクの再指定も、ルゥの処分も、国境での戦獣の購入契約も。……これらすべての最終的な決定権を持ち、書類に承認印を押していたのは、常に同じ人物だ」
彼が束ねた書類の、すべての最終決裁欄。
そこには、国家の資源を管理し、私たちの調査室を暫定停止に追い込んだ男の名前が、これ以上ないほど明確な証拠として刻み込まれていた。
『幻獣管理院・資源監督官 アルド・ヘルマン』。
「……逃がしません」
私は、その堂々と押された承認印を鋭く睨みつけた。
幻獣の声だけでは、彼を裁くことはできない。だから私たちは、彼ら自身が残した帳簿と、偽造の痕跡と、金の流れという『人間の証拠』を完璧に積み上げたのだ。
法務院の調査担当は、ヘルマン本人の認識と利得を示す資料も集めていた。私たちが集めた写しと、調査担当が保全した原本の照合が、ようやく終わった。
明日、アルクの再検証が行われる王国審理会の場に、私たちはこのすべての真実を突きつける。




