第40話 署名が離れても
「ピナの保護継続が、正式に決まりました」
王立幻獣舎の事務室で、アイラが決定書を見せてくれた。
施設への捜査と処分はこれからだ。けれど、ピナを今あそこへ返す必要はなくなった。
「最終記録も、マルタ飼育長とまとめました。フェルンさんの初回観察は、参考資料として別に綴じています」
「ありがとうございます」
私は書類の末尾を見た。
『翻訳担当官:アイラ・ベル』
『行動鑑定担当:マルタ・クライン』
そこに、セドリック・ヴァールの名前はない。
私とセドリックが提出した『関係申告書』の規定に則り、相互の評価に私情が混じる危険を減らすため、私たちは今後、同一の案件で最終署名を共にすることはしないと決めた。
彼が翻訳を担当する案件には別の鑑定官がつき、私が行動鑑定を行う案件にはアイラのような別の翻訳官がつく。調査室の停止中、セドリックは原隊の宮廷異語局で、若手翻訳官の教育と手順の標準化に当たっていた。
マティアス審理官も、このピナの最終書類を見て「二人が最終判断に加わらなくても、別の担当が記録を確かめられた。これは体制が実証されたということだ」と高く評価してくれた。
特別な二人がいなくても、真実には辿り着ける。
私たちの関係を開示したからこそ、疑いが出た時、どこを調べればいいかが明確になったのだ。
昼の鐘が鳴り響き、私は事務室を後にして中庭へと向かった。
冬の気配が近づく冷たい風が吹いていたが、空は青く澄み渡っている。
中庭の大きな樫の木の下にあるベンチには、すでに黒い外套を着たセドリックが腰を下ろしていた。
「お待たせしました、セドリック」
「いや、私も今来たところだ」
彼は手元の教育用テキストを閉じ、私に向かって静かに微笑んだ。
私は彼と肩が触れ合うほどの距離に座り、持参したバスケットからサンドイッチの包みを取り出した。
中庭を通りがかる役人や他の飼育員たちが、私たちを見てひそひそと囁き合っている。先日、新聞に『不適切な関係』と大々的に書き立てられたばかりなのだ。無理もない。
だが、私たちは人目を避けるようにコソコソ隠れたり、距離を取ったりすることはしなかった。堂々と並んで座り、一緒に食事をとる。関係を申告した以上、やましいことなど何一つないからだ。
「……翻訳の教育業務は、どうですか?」
私がサンドイッチを差し出しながら尋ねると、セドリックは少しだけ苦笑した。
「人に教えるというのは、翻訳そのものより難しいな。アイラのように勘の良い者ばかりではない。私が無意識にやっていた魔力波形の分解を、言語化して伝えるのに手こずっているよ」
「ヴァール様なら、きっと素晴らしい教科書が作れると思いますよ」
「そう願いたいものだな」
彼はサンドイッチを口に運び、ゆっくりと咀嚼した。
「君の方はどうだ。……今、名前で呼んでくれたな」
「呼んでいいと言ったでしょう」
「そうだが。嬉しかった」
彼は視線をサンドイッチへ落とした。私も包み紙を直すふりをした。
「少し、顔色が悪いように見えるが」
「あ……わかりますか。少し書類仕事が立て込んでいて、寝不足気味で」
「無理は禁物だ。今日は帰ったら、温かいスープでも飲んですぐに休むといい」
「はい。そうします」
私たちの会話は、それだけだった。
ピナの非公開の記録について、私が彼に報告することはなかった。彼もまた、自分が今異語局でどんな案件の翻訳をチェックしているか、詳しい内容を私に語ることはなかった。
利益相反を防ぐため、私たちは休憩時間には仕事の機密には一切触れないと決めていた。
その代わり、こうして並んで座り、ちゃんと眠れているか、食事はとれているかと、互いの体と私生活だけを気遣うのだ。
かつての私たちは、同じ事件を共有し、仕事の情熱をぶつけ合うことでしか関係を深められなかった。一緒に仕事をしていなければ、繋がっていられないと思っていた。
でも、今は違う。
署名が離れても、別々の場所で戦っていても、私たちの根底にある繋がりが揺らぐことはない。言葉が少なくても、ただこうして隣にいて体温を感じるだけで、胸の奥がじんわりと満たされていく。
公私の境界線をはっきりと引いたからこそ得られた、恋人としての静かで確かな幸福が、今の私たちを支えていた。
だが、その穏やかな幸福は、私たちのすぐ足元まで忍び寄っていた巨大な絶望を覆い隠すことはできなかった。
「フェルン!」
昼休みを終え、幻獣舎の飼育区画に戻った私を、血相を変えたマルタ飼育長が呼び止めた。
「マルタさん、どうしたんですか?」
「管理院から、正式な決定通知が下りてきたんだよ。……あんた、これを見な」
マルタ飼育長が震える手で差し出したのは、昨日、役人が大量に持ち込んできた『危険個体・再判定通知』の最終決定書だった。
私は嫌な予感に心臓を跳ねさせながら、その書類を受け取った。
調査室が機能停止になった空白を突き、アルド・ヘルマンは異常な速度で管理院の審査を強行したのだ。
書類の束の一番上。太い赤字で『再指定・処分決定』の印が押されたその一枚を見て、私は息を呑み、その場にへたり込みそうになった。
『対象個体:白翼獅子アルク』
『判定結果:過去の暴走事故の危険性を重く見、危険個体として再指定。三日後、王都隔離施設にて処分を執行する』
「アルク……嘘でしょ……」
書類を持つ手が、ガタガタと震えた。
白翼獅子のアルク。私が初めてその行動の裏にある「庇うための嘘」を見抜き、セドリックがその言葉を訳してくれた、最初の証人。
私たちが無実を証明し、平和な日々を取り戻していたはずのあの誇り高き幻獣が、再び危険個体の烙印を押され、殺されようとしている。
「ヘルマンは……国境での失態を誤魔化すために、審査基準の厳格化を理由にして、アルクを見せしめにしようとしているんだ……」
マルタ飼育長が、悔しげに拳を握りしめた。
幻獣の声など、いつでも握りつぶせる。
お前たちが作り上げた制度など、私の一存でいくらでも覆せるのだと。ヘルマンのそんな嘲笑が、書類の向こうから聞こえてくるようだった。
私は、震える手を必死に抑え込み、顔を上げた。
絶望している暇はない。アルクの処分まで、あと三日しかないのだ。
彼ら権力者が、書類と規則を使ってアルクを殺そうというのなら。
私たちは、その欺瞞に満ちた規則を、人間の社会で通用する『完全な証拠』で叩き潰すしかない。
最初の一頭を守り抜くための、すべてを懸けた最後の戦いが始まろうとしていた。




