第39話 自分たちの関係を記録する
幻獣管理院の資源監督官アルド・ヘルマンが去った後、調査室には深い静寂が降りていた。
明日をもって、この幻獣証言調査室の機能は『暫定停止』となる。私たちが心血を注いで作り上げ、法務院で検討が進み始めた幻獣供述記録の試案は、本格的な運用へ進む前に、権力によって無理やり凍結されようとしていた。
「……悔しいです」
私は机の端を強く握りしめた。
「アイラさんたち第三者の検証で、ピナの記録を別の人が検証できることは確認されたのに。私情を抱えているからという理由だけで、制度の象徴にはなれないなんて……」
「ああ。ヘルマンのやり口は狡猾だ」
セドリックは、机の上に投げ出された停止命令書を冷たい目で見下ろした。
「彼は、我々の仕事の『成果』そのものを否定することはしなかった。アイラの検証結果を否定すれば、法務院と真っ向から対立することになるからだ。だから彼は、我々の『関係性』という、法的に最も曖昧で脆い部分を突いてきた」
恋愛感情のある翻訳官と鑑定官。
その事実がある限り、世間は私たちを「私情で結託し、都合の良い記録を作る不公正な存在」として疑い続ける。ヘルマンは、大衆のその疑念を煽り、管理院の権限を使って私たちを排除する大義名分を得たのだ。
「……でも、私たちは絶望していませんよね」
私は顔を上げ、セドリックを見た。
「ああ。終わりだとは思っていない」
セドリックが顔を上げた。
アイラの訳には、私たちの記録と違う箇所もあった。それでも、違いを残したまま、ピナを保護する必要性は確かめられた。私たち以外にも、この仕事を続けてくれる人がいる。
「だが、このまま黙って引き下がるつもりはない」
セドリックは自分の椅子に腰を下ろし、新しい白紙の書類を手元に引き寄せた。
「ヘルマンが我々の『私情』を問題視し、それを隠蔽していると糾弾するのなら……隠蔽などしていないと、公に証明すればいい」
「証明、ですか?」
「好意があることは、すでに申し出た。ただ、これからの関係は、君に聞いてから決めたい」
彼は万年筆のキャップを外し、真剣な眼差しで私を見た。
「利益相反を回避するためには、関係を隠すのではなく、透明にすることが不可欠だ。我々が私的な関係にあることを公の文書として申告し、その上で今後の業務においてどのようなルールを自らに課すかを明文化する。……君は、それに同意してくれるか」
それは、私たちが互いに特別な感情を抱いていることを、法務院や管理院、そして世間に堂々と宣言するということだ。
隠れて付き合うという、後ろめたくも甘い選択肢を捨てるということ。
「はい。もちろんです」
私は一切の躊躇なく頷いた。
「私たちの関係は、隠さなければならないような恥ずかしいものじゃありません。むしろ、互いの仕事を誰よりも尊重しているからこそ、惹かれ合ったんですから」
「……ありがとう、リーゼ」
セドリックは深く頷き、書類に向かってペンを走らせ始めた。
『宮廷異語局および幻獣証言調査室における、利益相反回避のための関係申告書』。
表題を書き終え、本文に移ろうとしたところで、彼は万年筆を置いた。
「先に、君へ言うべきだった」
「……何をですか」
私の声も小さくなった。分かっているのに、聞きたかった。
セドリックは立ち上がり、机を回って私の前へ来た。
「君が好きだ。仕事が終わった後も、会いたい。……私と、付き合ってくれるか」
「はい。私も、あなたが好きです」
答えると、彼がそっと手を伸ばし、私の頬に触れた。私はその手を包み、自分から少し顔を寄せた。
その瞬間、私たちの間にあるすべての距離が消え去った。
彼の顔が近づき、その唇が私の唇に触れた。
静かな調査室の中での、初めてのキス。
それは、燃え上がるような激しいものではなく、互いの存在を確かめ合うような、ひどく静かで優しい口付けだった。
インクの匂いと、彼の少しだけ冷たい体温。それが私の内側に溶け込んできて、言葉にならない感情が胸を満たしていく。
私たちは、隠すことも、逃げることもしない。
唇が離れたあとも、私たちはしばらく、額を寄せたままでいた。机の上には、表題だけを書いた申告書が待っていた。
翌朝。
私たちは完成した『関係申告書』を持ち、法務院と幻獣管理院の窓口に堂々と提出した。
書類には、『当事者両名は現在、私的な交際関係にある』と簡潔に記されている。そして、利益相反を防ぐための自浄ルールとして、『同一案件において、両名が最終署名を共に行うことはしない。必ず第三者の検証を入れる』という誓約が添えられていた。
窓口の役人たちは、新聞でスキャンダルとして報じられた二人が、隠れるどころか堂々と関係を申告しに来たことに度肝を抜かれていた。
「申告しただけでは、公正さは保証されない。これからも、決めた手順を守ろう」
提出を終え、王立幻獣舎に戻る道すがら、セドリックが言った。
「はい。停止への異議も、記録と一緒に出しましょう」
私は清々しい気持ちで頷いた。
自分たちの関係を公に認めたことで、私の中にはもう一切の迷いがなかった。
だが、私たちが調査室に戻った直後。
ヘルマンの予告通り、幻獣管理院の役人がやってきて、正式な『幻獣証言調査室・機能停止命令書』を突きつけてきた。
「本日をもって、当調査室のすべての業務を凍結する。お前たちは各々の原隊へ復帰せよ」
冷酷な通達。私たちはそれを黙って受け取った。
「……それから、フェルン飼育官」
役人は、分厚い書類の束を私の机にドサリと置いた。
「なんだ、これは」
セドリックが眉をひそめると、役人は事務的な声で答えた。
「全国の保護施設および軍の各部隊から送られてきた、『危険個体・再判定通知』の束だ。国境での戦獣暴走事件を受け、管理院は審査基準の厳格化を決定した。過去に危険指定を保留、あるいは撤回された個体について、一斉に再評価を行うことになった」
「再評価だと……?」
「ああ。停止した調査室は新規案件を受けられない。今回の再評価は管理院側で進める。異議は所定の窓口へ出すように」
役人が去ると、廊下で鍵が鳴った。机も記録棚も、もう自由には使えない。
私は受領した通知の束を持ち上げた。表紙には、所定の異議申立て窓口が小さく印刷されている。
「これを確認する場所も、申請する必要がありますね」
「ああ。原隊に戻る前に、レーン審理官へ連絡を取ろう」
椅子に掛けていた上着を取り、机の上を見渡す。向かい合っていた二冊の手帳を、それぞれが鞄へ収めた。
最後に部屋を出た私の手に、冷たい鍵が渡された。返却するための封筒が、その下でかさりと鳴った。




