第38話 特別でなくても残るもの
羽耳兎ピナの再検証から一夜明けた、王国法務院の第一審理室。
広い室内には、マティアス・レーン審理官を中心として、再検証にあたった宮廷異語局のアイラ・ベル翻訳官、王立幻獣舎のマルタ飼育長、そして数名の別飼育官たちが集められていた。
私とセドリックは、証言台の傍らに立ち、彼らの最終報告を静かに見守っていた。
「――以上が、羽耳兎ピナにおける独立検証の最終報告です」
アイラが、分厚い書類の束をマティアス審理官の前に提出した。
「リーゼさんの在室時に取れた発声を、先輩の初回訳と照合しました。『箱の中で暗かった』『食べ物が足りなかった』という主要部分は一致します。痛みを訴える語には、現在の傷の痛みと過去の苦痛、両方の可能性を残しました」
アイラは、訳が一致した部分と、判断を留保した部分を分けて示した。
「警戒反応はリーゼさんの不在時にも確認されています。ただし、その反応だけで虐待の行為者や時期を断定することはできません」
次に、治安維持局の担当者が資料を開いた。
保護時に確認した箱の寸法は、長時間収容の基準を下回っていた。給餌簿にある量を与えるには、業者から届いた飼料では足りない。元職員の話では、売れ残り個体には飼料を減らす指示が出ていたという。
獣医官は、複数個体の継続的な体重低下と圧迫傷を報告した。流行り病だけでは、その分布と経過を説明できなかった。
ピナの声を除いても、保護を続け、施設の管理責任を調べる根拠は残った。
マティアス審理官は、提出された報告書にじっくりと目を通した。
翻訳、行動鑑定、物証。これまでは私とセドリックという「二人」が中心となって繋ぎ合わせていたこれらの要素を、今回は完全に分離し、別々のチームが独立して検証を行ったのだ。
「さらに、過去の数件の事案についても、同様の独立チームで再検証を行いました」
アイラが別のファイルを提示する。
「結果として、翻訳者と鑑定官の担当がフェルン鑑定官とヴァール翻訳官でなくても、新しいマニュアルの手順に従う限り、主要な結論は一致しました。用語の解釈に違いが出た箇所は、双方の理由を添えて残しました」
その言葉が響き渡った瞬間、審理室の空気がふっと緩むのを感じた。
マティアス審理官はペンを置き、眼鏡の奥の鋭い瞳で私たちを見据えた。
「まず、ピナはヴァール翻訳官がいなくても発声した。二人揃うことが必要だ、という見方は訂正できる。ただし、今回の試験では、発声を記録できたのはフェルン鑑定官の在室時だけだ。その条件は報告に残す」
彼はピナの記録を、他の案件の報告とは分けて置いた。
「別の担当者が確かめられることと、誰がいても同じ声が取れることは違う。今回は、その限界も含めて記録できている」
マティアス審理官は立ち上がり、厳かに宣言した。
「ピナたちの保護を継続する。供述記録は制度検討の資料として保存し、施設の捜査は診療記録と現物、人間の証言に基づいて進める。担当を分ける措置は機能した。関係の申告と第三者確認は、今後も続けてほしい」
「……っ!」
私は胸の前で両手をきつく握り合わせ、深く頭を下げた。マルタ飼育長が「よくやったね」と目配せをしてくれる。
ピナたちは、今日あの施設へ返されずに済む。業者の責任を問う捜査は、これからも続く。
私たちが信じてほしいと訴えるより先に、別の人が確かめた記録が、その時間を作ってくれた。
審理を終え、王立幻獣舎の調査室に戻ってきた私たちは、安堵の息を吐いて椅子に腰を下ろした。
「……無事に終わりましたね」
私が言うと、セドリックも深く頷いた。
「ああ。アイラたち第三者チームの検証は見事だった。これで、今回の手順で検証できた点と、まだ判断できない点を法務院に示せた」
彼は記録板を机に置き、ゆっくりと私の方へ向き直った。
夕方の斜陽が差し込む室内で、彼の深い瞳が、いつも以上の熱を帯びて私を見つめていた。
「リーゼ。君には、謝らなければならない」
「え?」
「私は、君との関係が我々の仕事を壊すと思い込んでいた」
セドリックは少しだけ自嘲するように目を伏せた。
「だから、自分が別の部署へ移り、関係を断ち切るか隠すしかないと考えた。相手のために身を引くことが、責任の取り方だと思っていたんだ」
彼は再び顔を上げ、私を真っ直ぐに見据えた。
「だが、君は違った。君は関係を開示し、第三者を巻き込んで透明性を作ることで、この壁を打ち破ってみせた。……二人だけの理解を独占するのではなく、手放して検証可能にすることで、仕事と、君との関係の両方を守ることができるのだと、君が教えてくれた」
彼の言葉は、翻訳官としての冷徹な分析ではなく、一人の人間としての深い敬意と愛情に満ちていた。
彼は「自分だけが理解者である」という特権を手放すことを恐れなかった。私という存在を独占し、二人だけの世界に閉じこもるのではなく、私の仕事が社会に認められ、広く使われることを誰よりも望んでくれた。
「私一人では、絶対に辿り着けない場所でした」
私は彼に向かって微笑んだ。
「ヴァール様が、いつも『検証可能な記録』の大切さを教えてくれたからです。私たちが積み上げてきた仕事への誇りがあったから、関係を開示して第三者に委ねることができたんです。……だから、謝らないでください」
私たちは、互いの能力だけでなく、その生き方そのものを補い合い、支え合っている。
その確かな実感が、私たちの間に静かで揺るぎない絆を結んでいた。
「――感動的な勝利の余韻に浸っているところ申し訳ないが、少々耳障りな話をさせてもらおうか」
不意に、調査室の開け放たれた扉から、低く粘り気のある声が響いた。
私とセドリックは弾かれたように入り口を振り返った。
そこに立っていたのは、高級な仕立ての外套を羽織り、杖をついた初老の男だった。鋭い鷲鼻と、すべてを見下すような冷たい目が、私たちを品定めするように細められている。
幻獣管理院・資源監督官、アルド・ヘルマン。
国境事件の特例契約書に承認印を押し、危険個体の再審査方針を握る人物。彼が自ら私たちの前に姿を現したのは、これが初めてだった。
「……ヘルマン監督官。幻獣管理院の重鎮が、我々のような末端の調査室に何の用ですか」
セドリックが立ち上がり、私を庇うように一歩前に出た。
「視察だよ、ヴァール翻訳官。法務院の審理結果は報告を受けている。見事な証明だったと、管理院としても評価しているよ」
ヘルマンは薄ら笑いを浮かべ、杖の先で調査室の床をコツンと叩いた。
「第三者を交えた検証によって、特定の個体の証言能力が担保された。それは素晴らしい。だがね……」
彼はわざとらしくため息をつき、私たちを交互に見据えた。
「制度の象徴となるべき部署のトップ二人が、私情で結ばれている。その『醜聞』の事実は残るのだよ」
私は息を呑んだ。
「関係を申告し、担当を分けた結果は確認されたはずです。それでも調査室を止める必要が、どこにあるのですか」
「法務院は納得しても、世間はどうかな?」
ヘルマンは私の言葉を冷酷に遮った。
「国民の税金で運用される国家の公的な調査機関が、若い男女の情事の舞台になっている。いくら検証手順を作ったと言い張っても、国民の目には『私情を抱えた調査室』としてしか映らない。……そんな不純な機関は、我が国の幻獣管理制度の象徴にはなれないのだよ」
彼の論理は、私たちの仕事の成果を完全に無視した、あまりにも理不尽なものだった。
だが、資源監督官という彼の絶大な権力の前では、その理不尽すらも正当化されてしまう。
「国民の不信を払拭し、行政の公正さを保つため、管理院の権限において決定した」
ヘルマンは懐から一枚の公文書を取り出し、私たちの机の上に放り投げた。
「明日をもって、幻獣証言調査室の機能を『暫定停止』とする。君たちは元の部署に戻り、この件についての最終的な処遇が決定するまで待機したまえ」
暫定停止。
それは、私たちが作り上げてきた幻獣の声を届ける場所が、権力によって一方的に奪われるという宣告だった。
ヘルマンは忌々しげに私たちを一瞥すると、満足げな笑みを浮かべて調査室を後にした。
残された私たちは、机の上に投げ出された停止命令書を前に、ただ沈黙するしかなかった。
利益相反という壁を越えてもなお、巨大な権力は私たちを容赦なく踏み潰そうとしてくる。この理不尽な状況の中で、私たちはどうやって互いの関係と仕事を証明すればいいのだろうか。




