第37話 隠すより開示する
「私が別の部署へ移れば、君は別の翻訳官と組める」
セドリックは、言い聞かせるようにもう一度言った。
私はピナのケージへ布を掛けた。こちらを見続けなくて済むよう、半分だけ。
「この案件から担当を外れることは、必要かもしれません。でも、そのために翻訳の仕事を全部手放す必要がありますか」
「君と組み続ければ、記録を合わせたと疑われる」
「だったら、合わせられない手順にしましょう。ルゥの時に始めたことです」
彼は黙った。
私は、彼の袖を掴んだ。引き留めるためだけの、その仕草を記録にはできない。
「仕事の分担は変えられます。私たちが互いをどう思っているかまで、消したことにはしないでください」
セドリックは私の手を見下ろした。
「……君と離れれば公正になる、というほど単純な問題ではないな」
「はい。先輩後輩でも、親しい友人でも、判断が偏ることはあります。誰と親しいかを報告して、必要な担当変更を受ける。それで足りるかは、自分たちだけで決めない」
「まずレーン審理官へ相談しよう。相互に好意があることは、事実として伝える」
好意、という言葉に、指先が熱くなった。
私たちがどうなりたいかは、まだ二人で話していない。それを新聞や申告書に先に決められたくはなかった。
けれど、今の仕事に関わる偏りを黙っておくつもりもなかった。
その日のうちに、私たちはマティアスへ申し出た。
彼は驚いた様子もなく、ピナの担当欄を開いた。
「好意があるだけで記録が偽りになるわけではない。ただ、二人が互いを検証する役を兼ねるのは避けたい。ピナについては、君たちは初回の観察と聞き取りを提出する。最終の評価は別の者に任せてほしい」
私は頷いた。
手元の計画書には、ピナが発声しやすい条件を調べるための四つの欄を作っていた。
私がいる時。私が退出した時。私が手入れに使った布だけを残した時。同じ材質の未使用の布を置いた時。
部屋、餌、照明、近づく担当者は、可能な限り同じにする。違いを一度に増やせば、何に反応したのか分からなくなる。
「ただし、無理に最後まで試す必要はありません」
私は計画書の下に書き足した。
「耳を伏せて呼吸が速くなったら、中断して距離を取ってください。暗い箱に閉じ込めたり、粗悪な餌を食べさせたりはしません」
ピナは私たちの正しさを示すために保護されたのではない。
この子がまた怯えたから証明できました、と喜ぶための試験にはしたくなかった。
翌日、検証は静かな保護室で行われた。
羽耳兎語の資格を持つアイラが翻訳を、マルタ飼育長が観察を受け持った。セドリックは初めから別室で待ち、四つの条件のどれにも同席しない。二人には手順と中止の目安を渡し、私が期待する結果は書かなかった。セドリックの初回訳は封をし、アイラが自分の訳を提出するまで開けない。
私は在室する条件の時も、ピナに質問しなかった。ただ、昨日と同じ場所で、同じ布を膝に置いて座った。
アイラが低く呼びかける。
ピナの鼻が動いた。しばらくして、羽耳の間から小さな声が漏れた。
何と言ったかを尋ねたくなったが、私は口を閉じた。
退出してからは、隣の部屋で待った。
様子が気になって、何度も扉を見た。セドリックもそこにいたが、どちらも検証室へ指示は出さなかった。
やがてマルタ飼育長が出てきた。
「退室直後は固まった。しばらく離れたら、呼吸は戻ったよ。布だけの条件では、餌を一口食べた。でも、声は出なかった」
「私の布だと分かりましたか」
「少なくとも、未使用の布より長く鼻を寄せていた。ただ、それだけで安心の理由まで決められないね」
私は頷いた。
私がいなければ駄目だと言われたいわけではない。それでも、自分の代わりに置いた布へ、あの子が鼻を寄せたと聞くと、胸が詰まった。
「餌を食べられたんですね」
「ああ。昨日より、ほんの少しだけ」
その報告が、一番嬉しかった。
アイラは記録に封をした。
「言葉はリーゼさんがいる時にしか取れていません。ただ、私もその場で声を聞き、セドリック先輩の訳を見ずに記録しました。発声があること自体は、二人だけの主張ではありません」
マティアスは、双方の封を確かめた。
「不在時にも警戒が見られた。それは、フェルン鑑定官がその場で反応を指示している、という説明では足りないことを示す。しかし、警戒の理由が繁殖施設の虐待だと、この検証だけで決まるわけではない」
「分かっています。治療記録と現場の調査は、どうでしたか」
彼は別の封筒を取り出した。
ピナたちの体重推移。施設が提出した給餌記録。飼料を納めた業者の受領控え。
毎日十分に与えたと書かれた量と、実際に届いた量が、合っていなかった。
「明日の審理では、これも別に確かめる。君たちの仕事は、ここまでだ」
記録を渡した後、私は保護室の入口に立った。
ピナは小さな前肢で、マルタ飼育長が置いた葉を押さえていた。
私を呼ぶ声はしなかった。
それでも、今はそれでよかった。




