第36話 恋は証拠を汚すか――羽耳兎ピナ
『特権を与えられた調査室の実態! 翻訳官と鑑定官の不適切な関係』
『恋の逃避行か、軍事施設での密会劇』
国境から王都へ帰還した翌朝。幻獣証言調査室の机には、昨日から世間を騒がせている新聞の束が無造作に積まれていた。
記事には、私たちが嵐の夜に国境の要塞で二人きりで過ごしたことや、普段から行動を共にしていることが、悪意ある脚色を交えて書き立てられていた。
「……ヘルマンに都合のいい記事ですね」
私は新聞から目を逸らし、隣に立つセドリックを見た。
「ああ。我々が国境の軍需物資横流しと、彼の承認印が押された特例契約書を見つけ出したことへの意趣返しだろう。我々が告発に動く前に、調査室の信用そのものを失墜させようという腹だ」
セドリックの顔には、怒りよりも深い苦悩が刻まれていた。
記事で最も大きく扱われているのは、私たちのスキャンダラスな振る舞いではない。彼らが本当に突きたいのは、私たちが目指す『幻獣供述記録』の制度的な弱点だった。
『恋愛感情のある翻訳官と鑑定官が結託すれば、幻獣の声などいくらでも都合の良いように捏造できるのではないか』。
その一文は、私たちの胸の最も痛いところをえぐっていた。
互いに想い合っている二人が、同じ事件の証拠を独占して作り上げる。客観的に見れば、それは『利益相反』を疑われても仕方のない状態だった。私たちがどれほど厳格に職業倫理を守り、嘘を混ぜまいと誓っていたとしても、社会から見れば「惹かれ合う二人が密室で作った都合の良い記録」に過ぎないのだ。
コンコン、と重いノックの音が響き、マティアス審理官が部屋に入ってきた。
彼の銀縁眼鏡の奥の瞳は、いつも以上に冷ややかだった。
「新聞は読んでいるな、ヴァール翻訳官、フェルン鑑定官。法務院や管理院には、朝から君たちの調査室の解体と、過去の記録の再調査を求める抗議が殺到している」
「レーン審理官……」
「この最悪のタイミングで、厄介な案件が持ち込まれた」
マティアス審理官は、小脇に抱えていた分厚いファイルを机に放り投げた。
「王都近郊の幻獣繁殖施設で、違法な多頭飼育と虐待の疑いが浮上した。昨夜、治安維持局が立ち入り検査を行い、衰弱した羽耳兎たちを保護した」
「羽耳兎……」
羽耳兎は、ふんわりとした綿毛のような体と、羽のように広がる大きな耳を持つ小型の幻獣だ。愛玩用として貴族に人気が高く、高値で取引されている。
「施設側は『適切な飼育環境だった。衰弱は流行り病のせいだ』と虐待を全面否定している。飼育箱や給餌簿は押さえたが、まだ診療記録との照合が済んでいない。施設は一時保護の継続に異議を出している。返還の可否を判断する前に、資料を揃える必要がある」
マティアス審理官は深くため息をついた。
「だから、保護された個体の一頭、『ピナ』という羽耳兎の証言を記録してほしい。……だが、問題がある」
数十分後。
王立幻獣舎の保護室に案内された私たちは、小さなケージの中で丸まっている羽耳兎のピナと対面した。
昨夜、救護の応援に呼ばれた私は、ピナの保温と給餌を手伝っていた。捕まえようとせず、布を敷いて待つと、ようやくその上へ乗ってくれた子だ。
ピナの白い毛並みは汚れ、本来ならピンと立っているはずの羽耳は、痛ましいほどに力なく垂れ下がっていた。
「ピナ、怖くないよ。ここは安全だからね」
私がケージの前にしゃがみ込み、ゆっくりと指先を差し出すと、ピナは鼻をひくひくさせ、恐る恐る私の指先にすり寄ってきた。
「ピィ……ピィィ……」
「……『痛い。暗い箱に入れられて、ご飯をもらえなかった』」
私の後ろに立つセドリックが、静かにピナの小さな鳴き声を翻訳した。
虐待を疑わせる内容だった。ただ、いつ、どこで何があったのかは、まだ確かめる必要がある。
「この話を手掛かりに、現場の箱と給餌記録を照合できます。私の観察も――」
「そうはいかないんだ、フェルン鑑定官」
マティアス審理官が、冷ややかな声で首を横に振った。
「実は、治安維持局の捜査員や、他の飼育員がピナに聴取を試みた時には、ピナは極度に怯えきってしまい、ただ体を丸めて固まるだけで、一切声を出さなかったのだ」
私はハッとして、マティアス審理官を見た。
「これまで、ピナの声を記録できたのは、君とヴァール翻訳官が同席した今の場面だけだ。君には近づくが、他の担当者にはまだ怯える。発声の条件を切り分けられていない」
審理官の言葉の真意に気づき、私は背筋が粟立つような寒気を覚えた。
「……反対派は、そこを突いてくるんですね」
「その通りだ。施設の弁護士と反対派の貴族たちはこう主張している。『あの二人がいる時だけ、都合のいい証言が出る。恋愛関係にある二人が共謀して、虐待の証拠をでっち上げているに違いない』とね」
マティアス審理官は、厳しい顔で私たちを見据えた。
「現在の世論と利益相反の疑惑を考えれば、君たち二人の署名だけで作られた供述記録を、法廷で証拠として採用することは不可能だ」
ピナの言葉を聞けたことに安心して、ほかの資料の確認を急がなければ、返還を求める申立てに十分な回答を出せない。
「そんな……! 私たちは、絶対に嘘の記録なんて作りません!」
私は立ち上がり、強く反論した。
「わかっている。だが、法廷で問われるのは『二人が嘘をつかないか』ではなく、『二人が嘘をつけない仕組みになっているか』だ」
マティアス審理官は冷徹に言い放つと、懐中時計を取り出した。
「二日後。法務院の公開審理の場で、ピナの再検証を行う。その日までに、関係を開示した上で担当を分ける案を出してほしい。管理院は調査室の停止も検討しているが、法務院の調査まで止めさせるつもりはない」
それだけを言い残し、審理官は保護室を去っていった。
残された私とセドリックの間に、重い沈黙が落ちた。
馬車の中で通じ合った互いへの特別な感情。それが今、私たちの仕事を汚す泥として、容赦なく投げつけられている。
「……リーゼ」
セドリックが、静かに口を開いた。
彼はケージの中のピナを見つめたまま、かつてないほど痛ましい表情をしていた。
「反対派の言う通りだ。我々がこのままコンビを組んでいれば、利益相反の疑いは永遠に消えない。我々の関係を隠してやり過ごすことも、否定して嘘をつくこともできない。そんなことをすれば、我々の記録そのものが根底から腐敗する」
「ヴァール様……」
「このままでは、ピナを救うことも、調査室の制度を守ることもできない」
セドリックは私に向き直り、決意を秘めた、けれどどこか震える声で言った。
「……私が、別の部署へ移ろう」
「えっ」
「私が翻訳の第一線から身を引き、後進の育成や資料の整理に回る。そうすれば、君の行動鑑定の公正さは守られる。君は別の翻訳官と組み、利益相反の疑いなくピナを救うことができる」
それは、彼が翻訳官としての最前線を捨て、私と制度を守るために自ら身を引くという、自己犠牲の提案だった。
私の胸の奥が、ぎゅっと締め付けられるように痛んだ。
せっかく、お互いに隣にいたいと願い合ったばかりなのに。
恋心が、証拠を汚す。
私情を挟まずに生きてきた彼が、私情を抱えたがゆえに、自らその職を退こうとしている。
「……そんなこと、絶対に駄目です」
私は拳を握りしめ、彼の言葉を拒絶した。
別の翻訳官に任せることはできる。ルゥの時に、それを確かめた。だからこそ、彼が自分の仕事まで捨てる必要はないはずだった。
二日後に迫る再検証。
私たちは、互いの関係を隠すでも手放すでもなく、この残酷な利益相反の壁を正面から打ち破る方法を見つけ出さなければならなかった。




