第35話 隣にいてほしい理由
国境要塞の指令室は、冷ややかな静寂に包まれていた。
机の上に広げられたヴェルク商会の納品伝票、烈香の混入を示す成分分析の速報、そして、幻獣管理院の資源監督官アルド・ヘルマンのサインが入った特例購入契約書。
これら動かぬ物証を前に、部隊長は完全に沈黙し、項垂れていた。
「戦獣を意図的に狂わせて危険個体に仕立て上げ、処分を正当化する。そして、失われた戦力を補うという名目で、ヴェルク商会から相場より高値で新たな戦獣を買い上げる」
セドリックは、軽蔑を隠そうともしない冷徹な声で事件の全容を語った。
「国家の防衛を預かる軍と、資源を管理するはずの行政機関が結託し、前線で命を懸ける兵士や幻獣たちを犠牲にして私腹を肥やしていた。……言語道断だ」
部隊長の身柄は直ちに軍の監察部門に引き渡され、烈香の混ざった飼料は、検査と捜査に必要な分を封印保存し、残りは使用を止められた。
蒼甲狼バルドをはじめとする戦獣たちの処分は停止され、獣医官の監督で危険性の再評価が始まり、彼らは無事に清浄な水と正規の飼料を与えられて、本来の落ち着きを取り戻しつつあった。
警戒任務は別部隊が補い、負傷した戦獣の治療も始まった。帰る前に、バルドが久しぶりに餌を食べるところを見届けられた。
だが、私たちの戦いが終わったわけではない。
「……部隊長の身柄は引き渡しましたが、本丸はまだ手付かずですね」
帰り支度を整えながら、私は手元の手帳を見つめた。
アルド・ヘルマン。この購入を王都から承認した責任者だ。ただし、契約書だけでは、部隊長と商会の不正を知っていたかまでは分からない。彼自身が烈香の混入を直接指示したという決定的な証拠には、まだ一歩届いていない。
「ああ。だが、確実に首元には迫っている」
セドリックは自分の記録板をカバンにしまいながら言った。
「王都に戻り、彼とヴェルク商会との繋がりをさらに洗い出す。……相手がどれほどの権力者であろうと、必ず追い詰めてみせる」
翌朝、私たちは王都へと向かう帰路の馬車に揺られていた。
猛吹雪が嘘だったかのように、車窓の外には澄み切った青空と、雪化粧をした美しい北の山並みが広がっている。
二人きりの車内には、激動の調査を終えた安堵と、心地よい疲労感が満ちていた。
「……ヴァール様」
向かいの席に座る彼に声をかけると、彼は手元の資料から顔を上げた。
「なんだ、リーゼ」
「もし、あの時……あなたが部隊長の脅しに屈して、無理やりバルドたちに服従の命令を訳していたら。あるいは、私がバルドたちの行動の意味を読み違えていたら、どうなっていたんでしょうね」
私は、膝の上で自分の手をきつく握り合わせた。
「バルドたちは処分され、新しい戦獣が連れてこられ、また烈香で狂わされて殺される。……そして、あなたの翻訳官としての誇りは、決定的に傷つけられていた」
ほんの少し歯車が狂っていれば、私たちは大切な命を、そして自分たち自身の誇りさえも失っていただろう。
その恐ろしさを遅れて自覚し、私は身震いした。
すると、セドリックが立ち上がり、私の隣の席へと移動して腰を下ろした。
ガタゴトと揺れる車内で、彼の肩が微かに私の肩に触れる。
「……君が隣にいてくれたから、私は自分の言葉を曲げずに済んだ」
セドリックは、私の震える手を自分の大きな手でそっと包み込んだ。
「君の観察眼が真実を見つけ出してくれると信じていたから、私はどんな権力に脅されても、推測や強制の言葉を口にしなかった。……君がいなければ、私はあの嵐の夜に、恐怖と重圧に押し潰されていたかもしれない」
彼の氷のように澄んだ瞳が、すぐ近くで私を見つめている。
「これまでは、私の『翻訳』という不完全な道具を補うために、君の『行動鑑定』が必要だと思っていた。調査室の制度を完成させるための、絶対に必要な仕事上のパートナーだと」
彼は言葉を探すように少しだけ間を置き、そして、迷いのない声で続けた。
「だが、今は違う。仕事の利害や、互いの能力なんて関係ない。……私はただ、君に今後も私の隣にいてほしい。仕事相手としてではなく、セドリック・ヴァールという一人の人間として、君の存在が必要なんだ」
彼は言い終えてから、繋いだ手を見た。私が離さないと分かると、少しだけ指に力がこもった。
胸の奥が、甘い熱で満たされていく。
彼の手の温もりが、私の手から全身へと伝わっていく。
「……私もです」
私は彼の真っ直ぐな視線を逃げずに受け止め、微笑み返した。
「私も、ずっとあなたの隣にいたいです。翻訳官と鑑定官としてだけじゃなく……これからも、あなたと一緒に」
私たちは、それ以上言葉を重ねなかった。
これからどういう関係になりたいのか。そこまで尋ねる勇気は、まだ出なかった。それでも、次に会う時にこの時間をなかったことにはしたくなかった。
その日の宿場へ着くまで、私たちは手を繋いでいた。
王都の城門が見えたのは、さらに二日後だった。
しかし、その幸せで満ち足りた余韻は、王都の幻獣舎に到着した瞬間に粉々に打ち砕かれた。
「ヴァール先輩! フェルンさん!」
私たちが馬車を降りるなり、血相を変えたアイラが駆け寄ってきた。
彼女の腕には、インクの匂いが新しい今日の朝刊が何部も抱えられている。
「どうした、アイラ。そんなに慌てて」
「これを見てください! 今朝の王都の新聞各紙です!」
アイラが差し出した新聞の一面を見て、私は思わず息を呑んだ。
そこには、私たちが国境の要塞に到着した日のことや、嵐の夜に二人きりで戦獣舎に篭っていたことなどが、ひどく扇情的な見出しとともに書き立てられていた。
『特権を与えられた調査室の実態! 翻訳官と鑑定官の不適切な関係』
『恋の逃避行か、軍事施設での密会劇』
「な……なんですか、これ」
「記事の内容はそれだけじゃありません」
アイラが悔しそうに新聞の紙面を指差した。
そこには、もっと悪意に満ちた、私たちの仕事の根幹を揺るがす致命的な批判が記されていた。
『恋愛感情のある翻訳官と鑑定官が結託すれば、幻獣の声などいくらでも都合の良いように捏造できるのではないか』
『彼らの提出する調査記録は、もはや公正とは言えない。私情に塗れた二人の署名を、法廷の証拠として認めるべきではない』
「……利益相反だ」
セドリックが、低く絞り出すような声で呟いた。
私と彼が想い合っているという純粋な事実。それが、敵の手によって『二人の記録は公正ではない』と攻撃するための最強の武器に変換されていた。
おそらく、背後で糸を引いているのはヘルマンだ。私たちが国境で彼の尻尾を掴んだと知り、先手を打って調査室の信用そのものを破壊しに来たのだ。
互いを想う感情が、自らの仕事を殺す刃になる。
私たちは今、かつてないほど残酷な『制度の壁』の前に立たされていた。




