第34話 命令しない翻訳
雪煙を上げて要塞の正門をくぐってきた新たな補給車の隊列に向かって、パドックの戦獣たちはありったけの怒りを込めた咆哮を浴びせかけていた。
「グルルォォォッ!!」
先陣を切るように、蒼甲狼のバルドが鉄柵に前足をかけ、鋭い牙を剥き出しにして威嚇する。
昨日と似た匂いを警戒している可能性が高い。だが、あの荷も検査するまでは、何が入っているか断定できない。
「ええい、なんだこの騒ぎは!」
怒号とともに、完全武装した兵士たちを引き連れて部隊長が駆けつけてきた。
「あの馬鹿獣ども、また暴れ出しおって! 補給車の搬入ができんではないか!」
部隊長は苛立たしげに腰の剣の柄に手をかけ、そして私たちの姿を認めると、傲慢な足取りでセドリックの前に進み出た。
「おい、異語局の翻訳官。昨夜はいい度胸をしていたが、今は悠長なことを言っている場合ではない。あの獣どもは今にも鉄柵を越えて業者に襲いかかりそうだぞ」
部隊長は顎でバルドたちをしゃくり、命令を下した。
「貴様のその力で、奴らに『静かにして人間に服従しろ。さもなくば殺す』と幻獣語で訳して伝えろ。言葉が通じるなら、恐怖で押さえつけるのが一番手っ取り早い」
昨日は離れるよう伝えてほしいという要請だった。今度は、拒めば殺すという脅しだった。
周囲の兵士たちが槍や魔法杖を構え、張り詰めた殺気がパドックを包み込む。
だが、セドリックは顔色一つ変えなかった。
彼は氷のように冷たい瞳で部隊長を見下ろすと、静かに、しかし絶対的な拒絶を込めて言い放った。
「……お断りする」
「な、なんだと!?」
「言葉を伝えることはできる。だが、薬物の疑いがある個体を脅して動かすために呼ばれたのではない。まず危険を取り除くべきだ」
セドリックは一歩も引かず、武装した軍人たちの威圧を正面から受け止めた。
「捜査の聞き取りを、私自身が出す服従命令に変えることはしない。……翻訳官は、彼らの言葉の仲介者であって、彼らを言葉で支配する命令者ではない」
その声は決して大きくはなかったが、猛吹雪の名残の風さえも黙らせるような、強烈な響きを持っていた。
「き、貴様……軍の最前線で命令違反をする気か! ならばあの暴走した獣どもは、軍の規定に則り、今すぐここで危険個体として処分するまでだ!」
部隊長が激昂し、兵士たちに「構えろ!」と叫んだ。
「待ってください!!」
私は飼育係を呼び、退避用の門を指した。兵士たちの射線には入らない位置で、部隊長へ声を張った。
「今なら補給車から引き離せます! まず搬入を止めてください!」
「馬鹿を言え! 人間に牙を剥いているのが見えんのか!」
「彼らが恐れているのは、人間じゃありません。あの補給車に積まれている『匂い』です!」
私は背後で唸り声を上げるバルドたちを見つめた。
彼らは人間を殺したいわけじゃない。ただ、自分たちの居場所である『家』に、猛毒である烈香を持ち込まれるのを拒絶しているだけなのだ。
「……彼らは、無理やり命令なんかで縛らなくても、安全な場所を示せば自ら動きます」
私は手帳をポケットにしまい、風の向きを確かめた。
風は北から吹いている。補給車のある正門付近から、戦獣舎の方角へ。
飼育係が部隊長の許可を取り、兵士が補給車の動きを止めた。私はパドックを囲む鉄柵に沿って走り、補給車の風筋から外れた東側の、空いている予備パドックのゲートに手をかけた。そして、重い鉄の閂を引き抜き、ゲートを大きく開け放った。
「バルド!」
私は大きく通る声で、蒼甲狼の名を呼んだ。
「こっちだよ! ここなら、あの嫌な匂いは届かない。安全な場所だよ!」
私は大きく身振り手振りを交えながら、予備パドックの中央を指差した。
バルドは威嚇の声を止め、私の姿をじっと見た。
そして、傍らに立つセドリックを見た。
「セドリック。あちらへ移れば、荷を近づけないと伝えてください。動けない仲間がいるなら、それも聞いて」
彼は頷き、バルドへ語りかけた。
返事を聞くと、セドリックは私を振り返った。
「若い狼が一頭、足を傷めている。先にそちらの通路を空けてほしいと言っている」
飼育係が負傷個体の房を開け、逃げ道を確保する。バルドはそれを見届けるまで、その場を動かなかった。
グルルゥ……。
バルドは短く、落ち着いた声で喉を鳴らすと、補給車へ何度も目を戻しながら、自ら踵を返した。
そして、パニックになっていた若い戦獣たちを促すように鼻先で小突き、堂々とした足取りで、私が開け放った予備パドックへと群れを率いて移動していった。
争いも、流血も、言葉による強制もなかった。
荒れ狂っていた戦獣の群れが、ただ自発的な意志で、安全な区画へと整然と移動していく。
「なっ……なんだ、これは……」
槍を構えていた兵士たちも、部隊長も、唖然としてその光景を見送るしかなかった。
蒼甲狼の群れが予備パドックへ入り、ほかの種も担当の飼育係によって別の退避房へ移されたのを見届け、私は静かにゲートを閉め、閂を下ろした。
「……これが、行動鑑定官の仕事だ」
セドリックが、信じられないものを見るような顔をしている部隊長に向かって、淡々と言い放った。
「力で押さえつけるのではなく、彼らの状態を読み、適切な環境を与える。彼女の観察がなければ、我々は無実の幻獣を虐殺し、さらに自軍の戦力を無駄にすり減らしていただろう」
セドリックは一切の誇張もなく、ただ事実だけを告げると、手元の記録板に万年筆を走らせた。
私は、彼のその横顔から目が離せなくなった。
高圧的な軍人たちに囲まれても、彼は少しも揺らがなかった。どんな権力を使われても、自分が楽になるための道を選ばず、翻訳官としての職業倫理を貫き通した。
相手を支配しようとせず、理解しようとし、その意思を尊重する。
彼が徹底して守り抜こうとしているその強靭な誠実さが、私の胸の最も柔らかい部分を、真っ直ぐに射抜いた。
(……ああ)
私は自分の胸にそっと手を当て、トクン、と少しだけ早く脈打つ心臓の音を聞いた。
仕事上の尊敬でも、頼りになるバディとしての信頼だけでもない。
私は、セドリック・ヴァールという一人の男性が、明確に、どうしようもなく好きなのだ。
この冷え切った国境の要塞で、雪の照り返しよりも眩しい彼の姿を見つめながら、私はついに、自分の中に芽生えていたその感情の正体を、はっきりと自覚したのだった。
「部隊長殿。これ以上、見苦しい言い訳は聞きたくありません」
事態が収束した後。指令室に踏み込んだセドリックは、ダミー業者が持ち込んだ烈香入りの飼料を証拠品として突きつけ、冷徹に部隊長を追い詰めていた。
軍の薬務担当から、未開封の飼料にも烈香が含まれていたとの速報が届いた。契約控えには、交換一頭ごとに支払われる手数料があり、その受取先は部隊長個人の口座だった。照合を求められ、部隊長は椅子に沈んだ。
「……私は、知らなかったんだ」
部隊長は頭を抱え、うめくように自白を始めた。
「業者の選定と、使い物にならなくなった戦獣の廃棄、そして新たな戦獣の購入契約。すべては王都の『上層部』からの指示で動いていた。私はただ、彼らが持ってきた契約書にサインをして、割り当てられた利益を受け取っていただけだ……!」
「上層部、だと?」
セドリックは部隊長の机の上にあった、王都から送られてきたという分厚い書類の束を引き寄せた。
「これです、ヴァール様」
私がその中から『新規戦獣購入および特例補給契約書』と書かれた書類を抜き出し、最後のページを開く。
そこには、補給業者を特例で選ぶことを承認した者の名前が記されていた。
『最終承認者:幻獣管理院・資源監督官 アルド・ヘルマン』
「……アルド・ヘルマン」
セドリックが、その名を憎々しげに読み上げた。
幻獣管理院の中で絶大な権力を握り、危険個体の指定や再資源化の決定権を持つ、国家の重鎮。
あの『偽造翻訳事件』で、管理院の保管資料が仲介人へ流れた件。そして、国境部隊という国家の防衛線を食い物にする巨大な商流の承認者。
どこまで承知して承認したのか。署名を見つけただけで、そこまで分かったことにはならない。
「……尻尾を掴みましたね」
私は、ヘルマンのサインを鋭く見据えた。
相手がどれほどの権力者であろうと、もう恐れはしない。私たちには、翻訳と行動鑑定という、彼らの嘘を暴くための武器があるのだから。




