第33話 嵐の夜
私たちが飼料倉庫から飛び出した時、国境の空はすでに完全に狂い果てていた。
「風が……!」
吹き荒れる暴風雪が、鋭い氷の粒となって顔を叩く。数メートル先すら真っ白に染まり、方向感覚すら奪われそうになる猛烈な嵐だった。
「フェルン鑑定官、手を離すな!」
セドリックが私の腕を強く掴み、自分の方へと引き寄せた。彼の手には、先ほど確保したヴェルク商会の名が記された納品伝票と、烈香が混入された飼料のサンプルがしっかりと抱え込まれている。
「この天候では、王都への通信魔具も干渉を受けて使い物にならない! 馬車を出すのも自殺行為だ!」
セドリックの叫び声すら、風の轟音にかき消されそうになる。
周囲を見渡すと、部隊長や兵士たちが慌ただしく要塞の中央にある強固な居住区画へと避難していくのが見えた。
「我々もあそこへ避難するぞ!」
「待ってください!」
私は足を止めた。
「パドックの戦獣たちが心配です! あれだけ興奮状態のところにこの嵐が来たら、パニックを起こして互いを傷つけ合ってしまうかもしれない。私は戦獣舎に行きます!」
「……本気か。暖炉もない石造りの厩舎で、この吹雪を一晩やり過ごすことになるんだぞ」
「当直の飼育係と合流します。ここで分かれて一人で行くのは危ない。先に居住区へ行く兵士に、行き先を伝えてください」
私が頑として譲らないのを見ると、セドリックは短く息を吐き、「わかった。君の判断に従おう」と頷いた。
私たちは身を屈めながら、兵士たちとは逆の方向――パドックに隣接する巨大な戦獣舎へと走った。
分厚い石造りの戦獣舎の中に滑り込み、重い扉を閉めると、ようやく風の轟音がくぐもった音に変わった。
中は薄暗く、氷室のように冷え切っていた。戦獣たちはすでに外のパドックからこの内部へと避難させられていたが、鉄格子で仕切られた各房の中では、異常な興奮と恐怖が渦巻いていた。
当直の飼育係が二人、退避用の仕切りを確認していた。私は飼料の使用中止と検査の件を伝え、外へ運び出せない箱を封じてもらった。獣医担当も呼び、怪我と呼吸の状態を手分けして確かめた。
「ギャウゥゥッ!」「グルルルッ!」
若い個体たちが、嵐の音と烈香の副作用による神経過敏でパニックに陥り、鉄格子に体を打ち付けている。このままでは本当に怪我をしてしまう。
私が止めに入ろうと一歩踏み出した、その時だった。
ウォォォォォン……。
戦獣舎の奥から、深く、地を這うような遠吠えが響いた。
蒼甲狼のバルドだった。
飼育係が、同じ群れの蒼甲狼たちの房を、内側の広い退避区画へ繋いだ。バルドはそこへ進み、若い狼たちの前に立った。他種の戦獣とは仕切りを残してある。そして、自分の巨大な体を壁のようにして、扉の隙間から吹き込む冷たい風と雪を遮った。
バルドは若い個体たちを見下ろし、もう一度、低く優しく喉を鳴らした。
大丈夫だ、落ち着け。まるでそう語りかけているかのようだった。
すると、暴れていた若い戦獣たちは次第に鳴き止み、バルドの足元に身を寄せるようにして丸まり、静かに震えを鎮めていった。
「……部隊長は、彼らのことをただの『使い物にならない兵器』だと言っていました」
私はバルドの背中を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「でも、彼らは兵器じゃありません。恐怖を感じ、仲間を思いやり、群れを庇い合う……尊い一つの命です」
「ああ。彼らをただの軍事資源としてしか見ない者には、絶対に理解できない姿だ」
セドリックも、静かな敬意を込めた瞳でバルドたちを見つめていた。
夜が深まるにつれ、戦獣舎の気温は容赦なく下がり続けた。
私たちは一番奥の、風が入り込まない空き房の隅に腰を下ろした。セドリックが自分の黒い外套を脱ぎ、私の方へ半分ほど掛けてくれる。
「……寒くないか、リーゼ」
「大丈夫です。ヴァール様こそ、そんな薄着で……」
「私は平気だ。少し、寄るといい」
彼はそう言って、自分の肩を私の肩にそっと触れ合わせた。
凍えるような空気の中で、彼の体温が外套越しにじんわりと伝わってくる。派手な抱擁ではない、ただ互いの体温を分け合うための最小限の接触。けれど、それがこんなにも私の心を落ち着かせ、安心感を与えてくれる。
外では狂ったように吹雪が吹き荒れ、私たちは窓の外を見ることさえ難しかった。
夜半、飼育係と見張りを交代した私たちは、支給された毛布を重ねた。奥の小部屋では、次の当番が湯を沸かしている。
暗闇と沈黙の中。ふと、セドリックが口を開いた。
「……私は、怖いんだ」
静かな、けれど微かな震えを含んだ声だった。
見上げると、彼の横顔は薄闇の中でひどく脆く見えた。
「翻訳官という仕事は、一歩間違えれば、いとも簡単に命を奪う」
彼は自分の膝の上で、きつく手を握りしめていた。
「もし私が、戦獣の言葉を一つでも聞き間違えたら。例えば『敵はいない』という言葉を『敵が来た』と誤訳すれば、部隊は無実の人間に総攻撃を仕掛け、多くの命が失われる。逆に危険を知らせる言葉を訳し損ねれば、味方の部隊が壊滅する。……言葉の誤差が、そのまま血の雨になるんだ」
セドリックは、私の方へ顔を向けた。
「だから私は、推測で口を開くことが怖かった。完璧に確証が持てる『正確な原文』がなければ、言葉を発することができなかった。無口だとか、冷酷だとか言われてきたが……本当は、ただ怯えていただけなんだ」
七つの言語を極めた天才翻訳官。彼が常に無表情で、沈黙を守り続けてきた理由。
それは他者への冷淡さではなく、言葉が持つ恐ろしいほどの重みと、それに伴う責任から逃げないための、彼なりの必死の防衛線だったのだ。
「……怯えていたのは、私の方です」
私は彼の冷え切った手に、自分の手をそっと重ねた。
「私はずっと、『どうせ人間に説明しても、誰も聞いてくれない』と諦めて、口を閉ざしてきました」
見習い時代、先輩のミスを被らされた時も。アルクの寝床の変化に気づいた時も。
「人間に伝える努力を放棄して、自分の中だけで結論を出して黙り込む。その私の悪い癖が、何度も自分自身を不利な状況に追い込み、アルクを危険に晒すことになった。私が黙っていたせいで、ヴァール様にも迷惑をかけました」
言葉に責任を持つのが怖くて黙っていた彼。
言葉が届かないと諦めて黙っていた私。
私たちの抱えていた『沈黙』は、全く違う理由から生まれたものだったけれど、その奥にある不器用な痛みは、どこか似ていた。
「だが、君は変わった」
セドリックは、重なった私の手をそっと握り返してくれた。
「君は諦めずに、言葉を持たない幻獣の行動を社会に届く記録へと変えた。君が隣にいてくれるから、私は自分の訳した言葉が間違っていても、君が正しい道へ軌道修正してくれると信じられる。……間違いを恐れて黙る前に、確かめようと言えるようになった」
「ヴァール様……」
「セドリックでいい」
彼は少しだけ照れたように微笑み、私の肩を抱き寄せた。
吹き荒れる嵐の轟音も、凍えるような寒さも、今の私には少しも恐ろしくなかった。互いの最も弱い部分をさらけ出し、理解し合えたこの時間が、何よりも甘く、愛おしいものに感じられた。
やがて、長い夜が明けた。
風の音が止み、鉄格子の窓から白々とした朝の光が差し込んでくる。
私たちは体を離し、固まった筋肉をほぐしながら戦獣舎の外へと出た。
嵐は完全に過ぎ去り、空には抜けるような青空が広がっていた。パドックには分厚い雪が積もり、すべてを白く覆い隠している。
「……静かですね」
「ああ。王都への連絡も復旧するだろう」
私たちが安堵の息を吐いた、その時だった。
グルルルルルッ……。
背後から、低く地を這うような唸り声が一斉に上がった。
振り返ると、パドックに放たれたバルドをはじめとする戦獣たちが、皆一様に身を低くし、毛を逆立てて牙を剥いていた。
「敵国の奇襲か!?」
セドリックが身構え、視線の先を追う。
だが、戦獣たちが激しい敵意を向けているのは、国境の向こう側――敵国の領土の方角ではなかった。
彼らの視線は、要塞の内側。今まさに、雪を蹴立てて正門をくぐり抜けてきた、王国側の新たな『補給車の隊列』に真っ直ぐに向けられていた。
「……また、同じ匂いに反応しているのかもしれません」
私は、戦獣たちと同じように、その補給車の隊列を睨みつけた。
あの馬車の中には、ヴェルク商会の手によって烈香が混入された新たな飼料が積まれているはずだ。
もう、戦獣たちをこれ以上苦しませはしない。私たちは証拠を胸に抱き、要塞の指令室へと足を踏み出した。




