第32話 怒りを作る香り
国境要塞の飼料倉庫の奥深く。
私は山積みになった新しい木箱の一つを開け、中に入っていた軍需飼料を一つかみ手に取った。
干し肉と穀物を固めた、戦獣用の標準的な飼料だ。だが、顔を近づけると、やはりあのツンとするような刺激臭が鼻を突いた。
「……押収薬物の研修で嗅いだ『烈香』に似ています。薬務担当に分析を頼んでください」
私は手袋についた粉を払い落としながら、セドリックを振り返って言った。
「烈香の可能性があるのか。採取は軍の薬務担当に任せよう」
「はい。南方で採れる特殊な植物の根を粉末にしたもので、強い興奮作用があります。本来は、裏社会で行われる違法な闘獣試合などで、幻獣を強制的に凶暴化させるために使われる薬物です。軍用幻獣に与えるようなものではありません」
私はもう一度、木箱の中を睨みつけた。
「これを飼料に混ぜて食べさせれば、幻獣の神経は過敏になり、極度の興奮状態に陥ります。人間からの理路整然とした命令なんて、聞けるはずがありません」
敵国の幻術でも、精神干渉でもなかった。
戦獣たちが突然命令を拒絶し、暴走し始めた理由は、彼らが日々口にする食事に『怒りを作る薬』が意図的に混入されていたからなのだ。
「なるほどな」
セドリックは懐中電灯の光を、倉庫の入り口付近にある管理棚へと向けた。そこから数冊の分厚い帳簿と日誌を取り出し、猛烈な速度でページをめくり始める。
「フェルン鑑定官。蒼甲狼バルドの、ここ数日の給餌記録を確認してくれ」
私は彼から渡された飼育日誌を受け取り、バルドのページを開いた。
「……バルドは、五日前から食餌を完全に拒否しています。水しか飲んでいません」
「やはりそうか」
セドリックが顔を上げ、私と視線を合わせた。
言葉を交わさずとも、私たちはお互いの頭の中にある推論が、全く同じ形に組み上がっていることを理解していた。
「バルドは、群れの中でも一番の古参です」
私は日誌の記録を指でなぞりながら、バルドの心境を行動から読み解いていった。
「彼は早くから、いつもの飼料と違う匂いを避けていた。薬の正体まで知っていたわけではありません。だから自分は口をつけず、そしてパドックの中で、若い戦獣たちが毒された食事を摂らないように威嚇して止めていたんです。……彼が言う『家』は、やはり戦獣舎でした。セドリックが場所を聞き直すと、寝床を指す語で答えています。飼料から広がる匂いで、慣れた舎が変わってしまったんです」
だからバルドは、鞭で打たれようと、兵士に怒鳴られようと、補給車の前に立ち塞がった。
これ以上、新しい烈香を仲間たちの『家』に運び込ませないために。
「だが、なぜそんな真似を」
セドリックが、手元の納品帳簿のページを叩いた。
「この新しい補給業者が搬入を担当するようになってから、戦獣の暴走率が急激に跳ね上がっている。偶然ではない。誰かが意図的に烈香を混入し、彼らを狂わせている」
「戦獣を暴走させて、何になるんですか?」
「戦獣は高価な軍事資源だ。それが使い物にならなくなれば、どうなる?」
セドリックの冷徹な問いかけに、私は先ほどの部隊長の言葉を思い出した。
『使い物にならない個体は処分して、補充を要請しなければならん』。
「……意図的に戦獣を危険個体に仕立て上げ、処分させる」
私が息を呑んで言うと、セドリックがすぐに引き取った。
「そして、軍に早急な戦力補充を迫り、新しい戦獣の購入契約を次々と結ばせる。自作自演で需要を作り出し、莫大な利益を得るためのマッチポンプだ」
私の観察による『現場の事実』と、セドリックの記録読みによる『書類の事実』。
それらがパズルのピースのように空中でカチリ、カチリと音を立ててはまっていく。
私が仮説を立てれば、彼が即座に物証で裏付ける。彼が論理を飛躍させれば、私が生態と行動の観点から地に足を着かせる。
最後まで言葉を交わし切る必要すらなかった。ほんのわずかな目配せと短い単語のやり取りだけで、私たちは高速で事件の全容を暴き出していた。
二人で一つの真実に到達する、成熟したバディとしての心地よい連携。私たちはもう、互いの専門性が自分の思考の一部に溶け込んでいるかのような錯覚すら覚えていた。
「この新しい補給業者は、表向きは地方の小さな商会になっている」
セドリックは納品伝票の束を一枚ずつ調べながら言った。
「だが、軍の厳しい審査をすり抜けて、こんな短期間で大規模な補給契約を独占できるはずがない。背後に必ず、大きな力が働いている」
彼は伝票の隅に小さく書かれた資金の出所を示す承認コードと、納入元の最終サインを冷たい目で追った。
「……見つけたぞ」
「ヴァール様?」
「この承認コードとサインは、ダミー会社のものではない。王都に本拠を置く、巨大商会の本体のものだ」
セドリックは、その一枚の伝票を私の目の前に突き出した。
そこには、これまで何度か見え隠れしていた名前が、はっきりと刻印されていた。
『ヴェルク商会』。
「ヴェルク商会……」
私はその名に、思わず身震いした。
薬や幻獣素材を扱う大商会だ。ローデ商会と同じ取引所に出入りしているとは聞いていたが、それだけでは不正への関与は分からなかった。
だが今は、問題の飼料を納める会社への保証と、代わりの戦獣を売る契約、その両方にこの名がある。
これまでは末端の下請け業者や、取引所コードとして薄く影を見せるだけだった。だが、この国境という大規模な軍事利権の場において、彼らはついにその直接的な関与を書類上に残していたのだ。
「彼らは、地方の小さな牧場から、国家の軍事拠点に至るまで、危険個体制度の欠陥を利用して利益を吸い上げている」
セドリックの声は、深い怒りを帯びていた。
「これはもう、単なる商人の不正ではない。国家の防衛線を食い物にする、巨大な利権の構造だ」
私は、要塞の冷たい壁を見上げた。
ヴェルク商会がこの国境部隊の補給に食い込めたのは、単に彼らが大商会だからという理由だけではないだろう。
軍の内部、あるいは幻獣管理院の上層部に、彼らと結託してこの特例的な購入契約を承認し、利益を分け合っている黒幕がいるはずだ。あの『偽造翻訳事件』で、管理院の保管資料を仲介人へ流した者と同じ、制度の中枢に巣食う闇。
「……急ぎましょう、ヴァール様」
私は手袋を握りしめ、倉庫の出口へと向かった。
「烈香の混入を部隊長に報告し、新しい戦獣の購入契約を止めなければ。バルドが体を張って稼いでくれた時間を、無駄にはできません」
「ああ」
セドリックも深く頷き、証拠となる伝票と帳簿を抱え込んだ。
私たちが飼料倉庫から飛び出し、部隊長のいる指令室へ向かおうとしたその時だった。
ヒュウゥゥ……と、要塞の岩肌を撫でるように、冷たく湿った風が吹き抜けた。
空を見上げると、分厚い雪雲がさらに重く、黒く垂れ込めている。昼間だというのに、まるで夕闇のように周囲が暗くなり始めていた。
「……嵐が来る」
セドリックが、空を見上げて呟いた。
国境地帯の天候は変わりやすい。だが、この風の冷たさと空の色は、ただの雪ではない。猛烈な吹雪を伴う大嵐の前兆だった。
「急がないと、王都への連絡も馬車の移動も不可能になる」
私たちは駆け出した。
巨大な悪意の尻尾を、ようやく掴んだのだ。嵐に閉じ込められる前に、この真実を明るみに出さなければならない。だが、自然の脅威は私たちの焦りを嘲笑うかのように、容赦なくその牙を剥き始めていた。




