第31話 戦獣が帰りたがる
王都を出発してから三日。
私たちを乗せた馬車が到着したのは、分厚い雪雲が空を覆う、冷涼な北の国境地帯だった。
切り立った岩肌にへばりつくようにして建設された巨大な軍事要塞。そこは、隣国との緊張状態を睨んで多数の兵士と軍需物資が配置されている、王国防衛の最前線だ。
「ようこそ、王都からの御使者殿」
要塞の入り口で私たちを出迎えたのは、分厚い軍服を着込んだ筋骨隆々の男だった。国境部隊の指揮を執る部隊長だ。彼の顔には、疲労と明らかな苛立ちが刻まれていた。
「急な要請に応えていただき感謝するが……まさか、現場に出てくるのがこんな若い翻訳官と、娘っ子一人とはな」
部隊長は私を値踏みするように一瞥し、鼻で笑った。
「私は幻獣証言調査室のリーゼ・フェルン行動鑑定官です」
私は軍人の威圧感に気圧されないよう、真っ直ぐに彼の目を見て名乗った。
「こちらは宮廷異語局のセドリック・ヴァール翻訳官。事態の収拾と調査のために参りました。さっそくですが、現場の状況を」
「ふん。まあいい」
部隊長は踵を返し、要塞の奥へと歩き出した。
「数日前から、我が部隊に配備されている『戦獣』たちが、突如として訓練やパトロールの命令を拒絶し始めたのだ。そればかりか、一部の若い個体は警備の兵に牙を剥き、あわや怪我人が出る騒ぎになっている」
「原因に心当たりは?」
セドリックが歩きながら問うと、部隊長は吐き捨てるように言った。
「敵国の幻術による精神干渉だ。奴らめ、卑劣な真似を……国境を越えて術士が潜り込み、我が軍の戦力である戦獣を内側から狂わせようとしているに違いない。兵器が言うことを聞かなければ、防衛線に穴が空く。……すぐにでも原因を突き止め、使い物にならない個体は処分して補充を要請しなければならん」
部隊長の言葉には、幻獣を一個の命ではなく、単なる『国家の軍事資源』としてしか見ていない冷酷さが滲み出ていた。
「……処分を急ぐ前に、まずは彼らの言葉と行動を検証します」
私は手袋をはめ直し、前を向いて歩いた。
私たちは要塞の最奥にある、巨大な戦獣舎の区画へと案内された。
鉄柵で区切られた広いパドックには、何十頭もの戦獣が収容されている。狼型、豹型、鳥型など種族は様々だが、どれも一般的な幻獣よりも筋骨が発達し、過酷な訓練を生き抜いてきた鋭い目つきをしている。
だが今は、その誰もが異常な興奮状態にあった。
「グルルルォォッ!」「ギャアアッ!」
あちこちで威嚇の声が上がり、鉄柵に体当たりをする音が鳴り響いている。
その騒然としたパドックの中で、一際異彩を放つ巨大な個体がいた。
「……あれは、蒼甲狼ですね」
私は足を止め、その幻獣を見つめた。
全身を覆う毛皮は雪のように白く、首から背中にかけては蒼い甲殻のような硬い鱗が生えている。群れの中でも一回り以上大きく、顔や前脚には無数の古い傷跡が刻まれていた。
戦獣として数え切れないほどの修羅場を潜り抜けてきたであろう、古参の個体だ。
「ああ。蒼甲狼の『バルド』だ。我が部隊でも一番の古株で、これまでは最も従順で優秀な戦獣だった。それが今ではあのザマだ」
部隊長が忌々しげに指差す先。
バルドは、パドックの入り口に横付けされた一台の軍用補給車の前に、まるで岩のように立ち塞がっていた。
その後ろには、パニックを起こして震えている数頭の若い戦獣たちが隠れている。バルドは彼らを背中で庇いながら、補給車から荷物を下ろそうとする作業員たちに向かって、低い唸り声を上げていた。
「どけ! この馬鹿獣が!」
兵士の一人が、バルドの足元を鞭で打った。
ピシッという鋭い音が響き、バルドの脚に赤い筋が走る。だが、彼は微塵も怯むことなく、その場から一歩も動こうとしなかった。その黄金色の瞳には、人間の暴力に対する恐怖ではなく、何か別の、深く悲痛な感情が宿っているように見えた。
「異語局の翻訳官。まず補給車から離れるよう、伝えてくれ」
部隊長が言った。
「見張りに出せる頭数が減っている。これ以上、搬入まで止められると困る」
「離れられない理由を先に聞きます。痛みか、何かへの警戒なら、命令だけでは危険が増す」
セドリックは記録板を開いた。
部隊長は苛立った顔で、短く頷いた。
私は小さく息を吐き、口元を緩めた。
大丈夫だ。彼が言葉の防波堤になってくれるなら、私は何者にも脅かされず、自分の『観察』に集中することができる。
「ヴァール様。彼らの言葉を」
「ああ」
セドリックは記録板を構え、バルドの正面へと歩み出た。
バルドはセドリックの姿を認めると、一度だけ深く息を吸い込み、腹の底から響くような重い声で鳴いた。
カリカリ、とセドリックの万年筆が走る。
「……バルドは、何と言っているんですか?」
私が尋ねると、セドリックは不思議そうな顔をして記録板を私に向けた。
「バルドは、ただ一言、同じ言葉を繰り返している」
そこには、たった一行の翻訳文が記されていた。
『家の匂いが違う』
「家の匂いが、違う……?」
私はその言葉を反芻しながら、再びバルドの行動を注視した。
バルドの鼻先は、人間たちに向けられているわけではなかった。彼が警戒し、立ち塞がっているのは、目の前にある『軍用補給車』と、そこから降ろされようとしている木箱だ。
そして、その木箱が運び込まれる先は――。
「部隊長さん。あの補給車から降ろそうとしている荷物は、どこへ運ぶものですか?」
「ああん? 見ればわかるだろう。パドックの裏手にある、戦獣たちの『飼料倉庫』だ」
部隊長は怪訝な顔で答えた。
「最近、部隊の補給業者が変わってな。新しい業者が運んできた軍需飼料と薬の搬入作業をやろうとしているんだが、あの馬鹿獣が邪魔をして進まんのだ」
業者が変わった。そして、バルドは『家の匂いが違う』と言って、新しい荷物を拒絶している。
私はセドリックと顔を見合わせた。
「……ヴァール様。バルドは、家を守ろうとしているのかもしれません。補給車から、舎へ入れたくない匂いがするのでは?」
「確認する価値はあるな」
セドリックは頷き、部隊長に向き直った。
「軍事機密でなければ、その飼料倉庫の中を見せていただきたい」
「ちっ。好きにしろ。どうせただの干し草と干し肉しか入っていない」
私たちは部隊長の案内で、パドックの裏手にある飼料倉庫へと向かった。
重い木製の扉が開かれた瞬間。
むわっとした湿気とともに、倉庫の中に蓄えられた大量の干し草や獣肉の匂いが押し寄せてきた。
だが、私はその匂いの奥に潜む、ある強烈な違和感に即座に気がついた。
「……これは」
私は鼻を手で覆い、顔をしかめた。
土と草と肉の匂い。本来ならそれしかないはずの倉庫の中に、見慣れない、そして嗅ぎ慣れない『ツンとするような刺激臭』が混ざっていたのだ。
それは、幻獣を落ち着かせるための鎮静剤の匂いでもなければ、栄養剤の匂いでもない。もっと脳の奥を直接刺すような、人工的で鋭い香料の匂いだった。
「フェルン鑑定官。気づいたか」
セドリックも、眉根を寄せて倉庫の奥を見つめている。
「ええ。いつもの飼料の匂いじゃありません。……何か、得体の知れない香料の匂いがします」
敵国の関与を決めつける前に、ここで確かめられることがある。
この匂いと戦獣たちの異常が、いつから重なったのか。
古参の蒼甲狼バルドは、この異常な匂いから群れの仲間を守るために、たった一頭で人間に逆らい続けていたのだ。
私たちは、薄暗い飼料倉庫の中に積まれた新しい木箱の山へと、ゆっくりと歩みを進めた。




