第30話 信頼は再現できる
王都の隔離施設の前で、一台の大きな荷馬車が出発の時を待っていた。
荷台に乗せられた特製のケージの中には、灰冠狼のルゥが丸まっている。今日、ルゥは危険個体の指定を完全に解かれ、故郷である地方の保護施設へと帰っていくのだ。
私はケージの鉄格子越しに、ルゥの灰色の冠毛をそっと見つめた。
施設にやってきた当初、ルゥは極度の恐怖で壁にへばりつき、ガタガタと震え続けていた。だが今は、人間の気配に怯える様子は少しだけ薄れ、穏やかな呼吸を繰り返している。
馬車がゆっくりと動き出した時。
ルゥが立ち上がり、私の方をじっと見て、その両足の間に挟み込んでいた尾をわずかに持ち上げ、小さく一度だけ振った。
「……気をつけて帰るんだよ、ルゥ」
私は遠ざかる馬車に向かって、手を振った。
尾の動きだけで、気持ちのすべては分からない。でも、私の方を向いて立っていられるようになった。一つの尊い命が、理不尽な死から救われたという確かな実感が、私の胸を温かく満たしていた。
「見送りは済んだか、フェルン鑑定官」
背後から静かな声がして振り返ると、セドリックが立っていた。
彼は昨日、宮廷異語局から正式に資格停止処分の解除を通達され、翻訳官として無事に復職を果たした。彼がいつもの黒い外套を羽織り、革表紙の記録板を小脇に抱えている姿を見ると、不思議と心が安らいだ。
「はい。ルゥは無事に帰っていきました」
「そうか」
セドリックは短く応じ、王立幻獣舎の方角へと視線を向けた。
「我々も調査室へ戻ろう。やるべき仕事が山積みだ」
幻獣証言調査室に戻った私たちは、さっそく今回の『偽造翻訳事件』の顛末を公的な記録としてまとめる作業に取り掛かった。
机の上には、アイラたちの現状評価と、原簿の照会結果が並んでいる。偽造を示す資料と、ルゥの暮らし方を考える資料は、別の綴りに収められた。
「今回の件で、旧制度の『転記証印』と『案件番号』を使った偽造の手口は照会で発見できるようになった。だが、これだけでは不十分だ」
セドリックは、自ら書類にペンを走らせながら言った。
「我々の調査室は、特定の個人に依存しない『制度』を目指している。今回のアイラたちの検証を見本とし、今後の運用ルールとして『二重翻訳』および『第三者レビュー』を正式な手順に組み込む」
「第三者による検証を、必須にするということですか?」
「ああ。重大な事案や、当事者との間に利害の対立、あるいは私的な関係が疑われる場合には、必ず主担当以外の翻訳官と鑑定官を入れ、ブラインドで再検証を行う。……私が今回、私情を挟まずに潔白を証明されたように、信頼というものは客観的な手順によって『再現』できなければならない」
セドリックの決断は、彼自身の権威を他者に委ね、検証される立場に身を置くことを意味していた。
翻訳官の特権を手放し、自らの言葉すらも絶対視しない。
彼はこの偽造事件をただの不祥事として隠蔽するのではなく、その偽造記録そのものを、後進の翻訳官や鑑定官を育成するための『偽造を見逃さないための教材』として保存することを決めていた。
「……あなたのその誠実さが、本当に誇らしいです」
私は彼が書き上げた新しい手順書を見つめながら、心からの敬意を込めて言った。
やがて、窓から差し込む光が黄金色の夕陽に変わり、調査室は穏やかな静寂に包まれた。
今日の分の書類整理が一段落し、私が片付けを始めようとした時だった。
「リーゼ」
不意に、名前を呼ばれた。
振り返ると、セドリックが万年筆を置き、私を真っ直ぐに見つめていた。
「……はい、ヴァール様?」
「今回の件について、改めて君に……伝えておきたいことがある」
セドリックの表情は真剣そのものだったが、どこかいつもと様子が違った。
公の場で見せる冷徹さや、幻獣の言葉を澱みなく紡ぎ出す時の自信が、今の彼からはすっぽりと抜け落ちている。
彼は少しだけ視線を泳がせ、口を開きかけては、また閉じた。
「君が私を信じて、私を必要としない方法で救ってくれたこと……。いや、違うな。私が言いたいのは、そういう仕事上のことだけではなくて……」
セドリックはひどくもどかしそうに、言葉を区切った。
「ヴァール様?」
「……私は、推測を交えて語ることを極端に避けて生きてきた」
彼は伏し目がちに、自分自身に言い聞かせるようにぽつりぽつりと語り始めた。
「他者の言葉を訳す時はいい。そこには確固たる『原文』が存在するからだ。原文へ戻って、自分の誤りを調べ直せる。……だが、自分自身の内側にある感情には、照らし合わせるべき原文がないんだ」
彼は自嘲するように微かに笑った。
「私は、自分の心がどう動いているのかを、どう表現すれば正確になるのかが分からない。誇張にならず、嘘にならず、ただありのままの事実として、君にこの『特別な感情』をどう伝えればいいのか……言葉を探しすぎて、うまく言えない」
七つの言語を操り、七種の幻獣語と長年向き合ってきた男が、今、自分自身の心を一つの言葉にすることもできずに、不器用に言い淀んでいる。
でも、だからこそ。
彼がどれほど真剣に、嘘偽りのない誠実さで私に向き合おうとしてくれているかが、痛いほどに伝わってきた。
「……原文なんて、なくていいんです」
私は机越しに彼を見つめ、静かに微笑んだ。
「あなたが今、私のために一生懸命に言葉を選んでくれていること。その姿だけで、あなたの気持ちは十分に伝わっていますから」
セドリックは少しだけ目を見張り、やがて、深く息を吐き出して顔を上げた。
その氷のように澄んだ瞳が、夕陽の光を受けて、熱を帯びた琥珀色に輝いている。
甘い台詞なんて一つもない。気の利いた愛の告白でもない。
それでも、私たちは互いの瞳の中に、言葉を超えた確かな繋がりと、特別な感情が芽生えていることをはっきりと意識していた。
ドンッ! バンッ!
その親密で静かな空気を、乱暴な音が切り裂いた。
「ヴァール翻訳官! フェルン鑑定官!」
調査室の重い扉が蹴破らんばかりの勢いで開かれ、軍の伝令兵が血相を変えて飛び込んできた。
「どうした。軍の人間が、異語局の調査室に何の用だ」
セドリックは即座に翻訳官の冷徹な顔に戻り、鋭く問い質した。
「き、緊急事態です! 国境地帯に配備されている『戦獣』の部隊が、突如として人間からの命令を一切拒絶し、一部が暴走状態に陥りました!」
「戦獣の反乱だと?」
私は驚きに声を上げた。
戦獣。それは、国境防衛のために軍によって特別に訓練された、極めて高い戦闘能力を持つ幻獣たちの総称だ。彼らは厳しい軍事訓練を受け、人間の命令に絶対服従するように躾けられているはずだった。
「軍の上層部は、敵国の幻術による精神干渉を疑っています。ですが、原因が判明しなければ、暴走した戦獣たちはすべて『危険個体』として処分せざるを得ません!」
伝令兵は息を呑み、私たちに懇願するような目を向けた。
「頼みます。彼らが何を言っているのか、なぜ命令を拒むのか。……お二人の力で、真実を突き止めてください。国境への緊急派遣の許可は、すでに法務院と管理院から下りています!」
国境での異常事態。
私はセドリックと顔を見合わせた。
前回の事件で明らかになった、幻獣管理院内部から流出した資料。そして、軍需物資や危険個体素材が流れ着く『再資源化市場』の闇の商流。
国境の軍事施設で起きる事件が、あの巨大な悪意と無関係だとは思えなかった。
「……行こう、リーゼ」
セドリックが、黒い外套を翻して言った。
「ええ。私たちの仕事の出番ですね」
私は手袋をはめ、行動鑑定の記録板をしっかりと胸に抱きしめた。
国境で牙を剥く戦獣たち。彼らは何を恐れ、何に怒っているのか。
私たちは未知の謎が待つ北の果てへと向けて、王都を出発する決意を固めた。




