第29話 彼を必要としない証明
灰冠狼ルゥが収容されている隔離施設の、冷え切った待機室。
私とセドリックは、向かい合わせに置かれた簡素な長椅子に座り、ただ沈黙の中、重い鉄扉の向こう側で進められている検証作業の終わりを待っていた。
現在、ルゥのケージの前では、宮廷異語局のアイラ・ベル翻訳官と、王立幻獣舎のマルタ飼育長による再聴取と再鑑定が行われている。
今回の調査は、セドリック・ヴァール名義の翻訳写しが偽造であると証明するための『独立検証』だ。そのため、当事者であるセドリックはもちろん、彼の直属のパートナーである私も、検証の場に立ち入ることは許されていなかった。
「……もし、アイラさんやマルタ飼育長が、ルゥの恐怖を攻撃性と誤認してしまったら」
私は膝の上で固く手を組みながら、思わず弱音をこぼした。
私たちが作った新しい『幻獣供述記録』のマニュアルは、属人的な直感を排除した客観的な手順だ。それでも、群唱鳥とは違う種族を調べる二人が、絶対に間違えないという保証はない。
「フェルン鑑定官。君が作った手順書を信じなさい」
目を閉じたままのセドリックが、静かな声で言った。
「アイラは優秀な翻訳官だ。そしてマルタ飼育長は長年幻獣を見てきたプロフェッショナルだ。違う所見が出れば、理由を確かめる。手順書が足りなければ、直せばいい」
彼の声に一切の揺らぎはない。
自分の翻訳官としての生命線が絶たれるかどうかの瀬戸際だというのに、彼はただ静かに、私たちが作り上げた『制度』の力を信じて待っていた。
やがて、重い鉄扉が軋む音を立てて開いた。
アイラとマルタ飼育長が、連れ立って待機室へ戻ってきた。二人の手には、新しい記録様式の束が握られている。
「……終わりました」
アイラが、少しだけ疲れたような、しかし誇らしげな笑顔を浮かべて、セドリックの前に書類を差し出した。
「ブラインドによる再翻訳および再鑑定の結果報告です」
セドリックは目を開き、その書類を受け取った。私も思わず彼の隣から覗き込む。
「現在は短い発声が可能です。ただし、過去の記録を読んで聞かせることはしていません。先に、本人が話せることを記録しました」
アイラは一枚目を開いた。
「『人が大勢来ると怖い。食べ物は置いて、離れてほしい』。これは今の状態の記録です。今そう言ったから、過去にも絶対襲っていない、とは言えません」
「近づいた時の距離、逃げ場の有無、食餌の反応も残したよ」
マルタ飼育長が続けた。
「治療記録と、処置に立ち会った者の話も別々に確認した。問題の時刻に、あの長い供述を取れたという記載には無理がある」
二人の結論は、私が期待した言い方と一字一句同じではなかった。だからこそ、自分たちで調べてくれたと分かった。
そこへ、監査担当が中央保管庫からの回答を持ってきた。
流用された案件番号は、別の個体の輸送時聴取だった。中央に綴じられた原本と送付控えは一致し、地方が受け取った写しだけ、個体名と供述が変わっていた。
セドリックはその日の朝から別の出張先で勤務しており、複数の立会記録が残っていた。写しを地方へ届けたのは、管理院の事務を請け負う仲介人だった。
監査担当は、仲介人の帳簿と押収品を机へ置いた。
「流用した番号の控えと、転記証印を模した印が見つかった。地方に渡す直前に写しを差し替えたことを、運搬担当も証言している。ヴァール殿が作成・指示したとする裏づけはなく、名義を冒用されたと判断した」
ルゥの診療記録が、あり得ない聴取時刻を示した。
中央原本と送付控えが、改変された場所を示した。
そして人間の記録が、誰の手で写しが動いたかを示した。
一つの検査で全てが証明されたのではない。その一つ一つが、ようやく繋がったのだ。
その言葉を聞いた瞬間、私の胸の奥で張り詰めていた糸がふっと解けた。
膝の力が抜けそうになるのを必死に堪え、私は深く、深く息を吐き出した。
「ありがとうございます、アイラさん。マルタ飼育長」
「礼を言うのは私の方だ」
セドリックが立ち上がり、アイラとマルタ飼育長に深く頭を下げた。
「君たちの正確な仕事に、心から感謝する」
その日のうちに、アイラとマルタ飼育長の連名による『幻獣供述記録』が法務院と管理院に提出された。
独立した専門家による検証可能な記録は、いかなる言い逃れも許さない圧倒的な証拠として機能した。
供述を根拠とする危険指定は撤回された。別に提出された獣医官の移送許可を待ち、ルゥは元の保護施設へ帰ることになった。
そして同時に、セドリックにかけられていた偽造の疑いも晴れ、彼の翻訳官としての資格停止処分は即時解除されたのだった。
王立幻獣舎への帰路。
空を赤く染める夕日を背に受けながら、私とセドリックは並んで歩いていた。
無事にルゥの命が救われ、セドリックも復職できたというのに、私たちはしばらくの間、言葉を交わすことができなかった。
やがて、幻獣舎の正門が見えてきた頃、セドリックが足を止めた。
「フェルン鑑定官」
「はい」
私も立ち止まり、彼を振り返る。
セドリックは少しだけ視線を落とし、言葉を探すように間を置いた後、私の目を真っ直ぐに捉えた。
「……君は、すごい人だな」
「え?」
突然の褒め言葉に、私は戸惑って目を瞬かせた。
「すごい、とは?」
「私の名義を騙った偽造書類が突きつけられた時、普通なら『私がそんなことをするはずがない』と感情論で庇うか、あるいは疑心暗鬼に陥るかのどちらかだ。だが、君はそのどちらでもなかった」
セドリックは一歩近づき、私の瞳の奥を覗き込むように言った。
「君は私を救うために、私という『個人』を盲信して泣くのではなく……私がいなくても成立する『制度』を使い、第三者の検証という客観的な事実をもって、私の潔白を証明してくれた」
「それは……ヴァール様がいつも私に教えてくれたことですから」
私は少し頬が熱くなるのを感じながら答えた。
「推測を足さず、検証可能な事実を積む。それが一番強くて、一番誠実な戦い方だって。私はただ、あなたが教えてくれた武器を使っただけです」
私の言葉を聞いたセドリックの表情が、はっきりと和らいだ。
その氷のように澄んだ瞳の奥で、何かが決定的に形を変え、熱を帯びていくのがわかった。
「……私は、言葉の誤差を恐れるあまり、自分の感情を正確に表現するのが苦手だ」
彼は少しだけ不器用に、けれど真っ直ぐな響きで言った。
「だが、これだけは正確に伝えられる。君が私を必要としない方法で私を救ってくれたこと……その強さと誠実さを、私は誰よりも尊いと思う」
それは、彼なりの最大の賛辞であり、彼自身の内側に芽生えた特別な感情の吐露だった。
甘いささやきはない。でも、自分の能力ではなく、自分の仕事に対する姿勢そのものを信じ、共に歩んでくれる相手への、深く確かな愛情がそこに込められていた。
「……ありがとうございます、ヴァール様」
私は小さく微笑み、彼に深く頷いた。
だが、その穏やかな余韻は、幻獣証言調査室に戻った直後に打ち砕かれた。
「ヴァール先輩! フェルンさん!」
調査室で私たちを待っていたのは、山のような書類を抱えたアイラだった。
「法務院から、追加の調査報告が上がってきました。問題の『偽造された転記証印』と『案件番号』が、どこから流出したのかという調査結果です」
アイラの顔は、ひどく強張っていた。
「流出元が、分かったのか?」
セドリックが鋭く問う。
「はい……」
アイラは手元の報告書を広げ、震える指で一つの項目を指し示した。
「偽造印は、三年前に廃止された証印の印影見本から作られていました。流用された番号には、一般公開されていない案件も含まれていました」
アイラは私たちを交互に見つめ、信じられない事実を口にした。
「仲介人が持っていた番号一覧には、管理院へ配った控えにだけ付く整理印がありました。異語局の原本ではなく、『幻獣管理院』の保管資料を写したものです」
「管理院の、内部……」
私は息を呑んだ。
仲介人が独力で証印と案件番号を揃えたわけではなかった。
幻獣を保護し、管理し、処分を決定する国家の絶対的な機関。その内部の人間が、自ら情報を漏洩させ、セドリックの肩書きを利用して無害な幻獣を危険個体に仕立て上げていたのだ。
「……処分素材の売却利益を得ているのは、単なる下請けの商人ではないということだ」
セドリックの声が、氷のように冷たく響いた。
最も強大な敵が、制度を守るべき中枢の奥深くに潜んでいる。
真の戦いの幕が、今静かに上がろうとしていた。




