第28話 売られた言葉
翌朝、私は提出予定の報告書を監査担当へ預けた後、閲覧を許された写しをセドリックの机に広げた。
「ヴァール様、これを見てください」
資格を一時停止され、調査室で一人待機していた彼は、無言で私が差し出した書類――ルゥの診療記録と飼育日誌の複写に目を通した。
「……供述日時において、対象個体は咽頭炎の処置中であり、発声不能状態だった」
セドリックは、私が赤線を引いた箇所を正確に読み上げた。
「はい。声を出せないルゥが、人間を襲うなどという供述を行えるはずがありません。あの翻訳写しは、物理的に不可能な状況で作成された完全な偽造です」
私はさらに、机の端から見つけ出していた複数のファイルを彼の前に並べた。
「偽造されたのは、ルゥの記録だけじゃありません。この緑毛羊も、土這い竜も……すべて、局の『旧式の転記証印』と『過去の案件番号』が使われています。そして、これらの幻獣たちに共通しているのは、どれも希少で、処分素材として市場で高く売れる種族だということです」
セドリックの深い瞳が、並べられたファイルを見据えて微かに揺れた。
彼の頭の中で、点と点が繋がり、おぞましい一つの線となって浮かび上がったのだろう。
「……処分された危険個体の素材は、再資源化規則によって安価で市場へ流れる。彼らは私の肩書きを『書類上の凶器』として使い、無害な幻獣を合法的に殺処分させて、その素材を市場で売り捌いていたということか」
彼の絞り出すような声には、深い怒りと、それ以上の重い苦渋が混じっていた。
私はすぐさま管理院に走り、ルゥの物理的な発声不能を証明する診療記録の写しを提出した。これにより、ルゥの明朝の処分は『事実確認が取れるまでの間、一時停止』という措置が取られた。
あの薄暗いケージの隅で震えていた灰冠狼の命は、間一髪で繋ぎ止められたのだ。
だが、調査室に戻ってきた私を迎えたのは、かつてないほど重く、冷たい沈黙だった。
セドリックは窓辺に立ち、夕闇に沈んでいく王都の街並みをただ見つめていた。その背中はひどく強張っているように見えた。
「……ルゥの処分は止まりました。これで、あとはあなたの偽造の疑いを晴らすだけです」
私が努めて明るい声で言うと、セドリックはゆっくりと振り返った。
「……すでに処分されてしまった個体がいる」
彼は机の上に並んだ、緑毛羊や土這い竜のファイルを視線でなぞった。
「私が旧制度の穴に早く気づいていれば。私の名が、これほど無防備に独り歩きする前に手を打っていれば、彼らは死なずに済んだ。私の存在そのものが、無実の彼らを危険に晒したのだ」
彼は自らを罰するように、固く拳を握りしめた。
「言葉の正確さを誰よりも重んじてきたはずの私が、最も醜い嘘の隠れ蓑にされていた。……私は、翻訳官を辞するべきかもしれない」
辞職。
その言葉が彼の口から出た瞬間、私は雷に打たれたような衝撃を受けた。
彼はいつも、どんな困難な状況でも冷徹に事実を積み上げ、決して逃げようとはしなかった。そんな彼が、自責の念から自らの天職を捨てようとしている。
「今、辞めると決めないでください」
私は彼の机の前に立った。
「あなたが偽造したのでなければ、偽造した人の罪を代わりに引き受けても、ルゥは助かりません」
「だが、私の名が使われた」
「はい。だから、どうすれば悪用を見つけられるかを、一緒に考えてほしいんです。あなたにしかできない仕事に戻すんじゃなく、誰かが間違いを指摘できる形に」
セドリックは、まだ紙を握っていた。
私はその手に自分の手を重ねた。紙の角が曲がる力が、少しずつ抜けた。
「続けたいですか。翻訳の仕事」
長い間の後で、彼は頷いた。
「……続けたい」
「なら、そのための方法を探しましょう」
「ですが、現実的な問題が一つあります」
私は彼を励ました後、机の上の書類に視線を戻した。
「記載時刻の聴取が成立しないことと、あなたが偽造していないことは別です。監査担当は今、原本と送付経路を照合しています」
「ああ。私の出張先にも確認が入った」
「ルゥの危険指定を見直すには、今の状態を改めて診る必要もあります。資格のある別の翻訳官と、別の飼育員にお願いしたいんですが」
灰冠狼語の担当者は少ない。地方への出張者もいて、すぐに来られる人がまだ決まっていなかった。
処分は止めた。それでも、あの暗い檻で待たせる時間は、少しでも短くしたい。
コンコン、と。
その時、調査室の扉が控えめに叩かれた。
「……入室を許可する」
セドリックが応じると、重い扉がゆっくりと開き、一人の女性が姿を見せた。
宮廷異語局の深い緑色の制服。手には真新しい記録板を抱えている。
「失礼します」
澄んだ声でそう言って部屋に入ってきたのは、セドリックの後輩にあたる若手翻訳官、アイラ・ベルだった。
彼女は、前回の群唱鳥の事件で試験審理に参加し、私たちの作ったマニュアルに従って見事に翻訳を成功させた人物だ。
「ベル翻訳官。こんな時期に、私に何の用だ」
セドリックが問うと、アイラは私たち二人を真っ直ぐに見据え、一歩前に進み出た。
「ヴァール先輩の資格停止の件、異語局でも大騒ぎになっています。灰冠狼語は私も資格を持っています。局内の監査とは担当を分けて、私がルゥの再聴取を受け持てることになりました」
彼女は深呼吸をし、決意に満ちた声で宣言した。
「私が、やります。私が第二翻訳者としてルゥの聴取に向かい、独立検証を行います」
私は驚きに目を見張った。
セドリックの能力を誰よりも神格化していた彼女が、自分の先輩の過去の記録を「疑い、検証する」という最も重い役目を自ら引き受けてくれたのだ。
「……いいのか、アイラ」
セドリックが静かに問う。
「はい」
アイラは力強く頷き、私の方を見た。
「フェルン鑑定官が作ってくれたマニュアルのおかげで、私は『先輩の真似』ではなく、自分の力で言葉を拾う方法を知りました。だから今度は、先輩の名に引かれず、確かめたことを報告します」
彼女のその言葉は、私たちが目指した『再現できる制度』が、確かに誰かの心を動かし、新しい力となって芽吹いた瞬間だった。




