第27話 信じるだけでは足りない
薄暗い隔離施設のケージの奥。
灰冠狼のルゥは、私が少し身動きをするだけでビクッと体をすくませ、さらに壁際へと身を押し付けた。
その瞳には攻撃的な色は微塵もなく、ただ人間に怯え、自分の身を守ることだけで精一杯な小動物のような怯えがあった。
「……大丈夫だよ。何もしないから」
私はできるだけ低い姿勢のまま、刺激を与えないようにそっとその場を離れた。
今のルゥには、近づく人を避ける反応が見られた。だが、現在の態度だけでは過去の供述を否定できない。
あの翻訳写しは、セドリックの言葉ではない。絶対に偽造だ。
――でも、それだけでは駄目なのだ。
「『私がそう思うから』じゃ、ヴァール様を救うことはできない」
私は自分自身に言い聞かせるように、きつく唇を噛み締めた。
セドリックは、いつでも「推測を足さない」という倫理を貫いてきた。彼が感情で事実を歪めることをどれほど嫌うか、私は誰よりも知っている。
「あんな立派な人が嘘をつくはずがない」という人柄への信頼や、私個人の直感的な庇護では、法務院や監査官を納得させることはできない。
彼を救うための唯一の方法。それは、彼がいつも私に示してくれたように、『検証可能な記録』を冷徹なまでに積み上げることだ。
私は隔離施設の管理事務所へ向かい、管理人にルゥの過去の記録の開示を求めた。
「ルゥがここに保護されてから、現在までの『診療記録』と『日々の飼育日誌』をすべて見せてください」
「ええ? 異語局の翻訳官殿が残した調書があるんだから、わざわざ見直す必要なんて……」
「私は幻獣行動鑑定官です」
私は真鍮の身分証を提示し、一歩も引かない態度で要求した。
「処分前の最終確認です。記録の提出を拒むなら、管理院に報告します」
渋々といった様子で出された分厚いファイルの束を、私は机の上に広げた。
まずは、監査官が持ち込んだ偽の翻訳写しに記載されていた『供述日時』――つまり、ルゥがセドリックの聴取を受けたとされる日を確認する。
そして、保護施設の診療記録の同じ日付のページを開いた。
「……ありました」
そのページの記載を見た瞬間、私の心臓が大きく跳ねた。
『対象:灰冠狼。重度の咽頭炎および気管支の感染症と診断。獣医による切開と投薬処置を実施。絶対安静』
さらに、その下には赤いインクで重要な特記事項が書かれていた。
『処置中から翌朝まで発声なし。喉の腫脹により意味を伴う発声は困難。交代時にも継続観察』
私はその一文を、何度も何度も目でなぞった。
写しの聴取時刻は、処置の最中だった。施術簿と当直二名の引継簿にも、同じ時刻が残っていた。
担当獣医官に問い合わせると、当時は声を出す状態ではなく、翻訳官の入室もなかったと回答が来た。
発声器官が使えない幻獣から、聴紋でどうやって『私は人を襲う。人間の肉を喰らうのが好きだ』なんていう流暢な言葉を聞き取るというのか。
「……嘘だ。完全に、物理的な捏造だ」
私は震える手でその診療記録のページを複写した。
少なくとも、記載された時刻にその聴取を行った、という説明は成り立たない。日時の誤記なのか、内容の捏造なのか。そして誰が作ったのかは、まだ別の調査が必要だった。
さらに私は、ルゥの日常的な『飼育日誌』のページもめくっていった。
私一人の「ルゥは臆病だ」という直感だけでは、行動鑑定としては不十分だ。第三者の目から見た客観的な裏付けが必要になる。
日誌には、保護施設の複数の飼育員たちが持ち回りで書いた記録が残されていた。
『配膳時、大きな音を立てると怯えて餌を食べない』
『清掃中、隅で丸まったまま動こうとしない。攻撃性は皆無』
『他の小動物が近づいても、威嚇せずに自分が逃げる』
何人もの異なる飼育員たちが、ルゥの『極度な臆病さ』と『攻撃性のなさ』を日々の記録として書き残していた。私の行動鑑定の結果は、この施設でルゥを世話してきた人々の記録と、完璧に一致している。
セドリックの過去の正規の訳文と比較して、「この翻訳にはヴァール様の文法的な癖がない」と筆跡鑑定のように主張することもできた。だが、それだけでは「今回は書き方を変えただけだ」と言い逃れられる可能性がある。
だからこそ、この『発声不能という物理的証明』と『第三者による行動記録の裏付け』が、写しの信用性を再審査する根拠になる。
「……待っていてください、ヴァール様」
私は集めた記録の束を胸に抱きしめた。
彼の人格に寄りかかるのではなく、彼がいなくても成立する論理の鎖で、彼を縛り付ける偽の証拠を打ち砕く。それが、彼に対する私の、対等なパートナーとしての答えだった。
王立幻獣舎の調査室に戻った私は、さっそく集めた証拠を報告書にまとめる作業に取り掛かった。
セドリックの資格停止が解け、ルゥの処分が撤回される道筋が見えたことで、私の中には大きな安堵が広がっていた。
一息ついて、ふと監査官が置いていった他の資料や、地方から取り寄せられていた未整理のファイルの山に目を向けた。
その中には、ルゥの件と同じように『宮廷異語局の旧式転記証印』と『過去の案件番号』が押された、地方提出用の翻訳写しのコピーがいくつか混ざっていた。
「……念のため、他の書類も確認しておこう」
私は何気なくその中の一枚を手に取り、内容に目を通した。
対象は、別の地方の牧場にいた緑毛羊。温厚な草食の幻獣だ。
だが、その翻訳写しにはこう記されていた。
『私は人間の子供を突き飛ばすのが好きだ。隙があればまたやる』
……違和感。
私は慌てて、次のファイルを手に取った。
対象は、老齢の土這い竜。もうほとんど動けないはずの個体だ。
『人間を土に埋めて殺したい。私にはその力がある』
「何、これ……」
私は次々とファイルをめくった。
どれもこれも、ルゥの時と同じだ。不自然なまでに主観的で、大げさなまでに攻撃的な供述。そして、すべてにセドリック・ヴァールの名と、旧式の転記証印が押されている。
添付された台帳では、これらの個体はすでに危険指定を受け、処分されていた。写しが偽造なら、もう取り返せない。
偽造された記録は、ルゥ一頭だけではなかったのだ。
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
偽造犯の目的は、セドリックを個人的に陥れることではなかったのだ。
セドリック・ヴァールという『権威ある翻訳官の肩書き』を利用して、本来なら処分されるはずのない無害な個体を、意図的に危険個体に仕立て上げている。
なぜそんなことをするのか。
答えは一つしかない。危険個体として処分された幻獣の素材は、再資源化規則によって安価で市場に流れるからだ。
セドリックの言葉が、悪意ある者たちの金儲けの道具として売り飛ばされていた。
「……許さない」
私は、ルゥの報告書と、見つけ出した複数の偽造書類を重ねて強く握りしめた。
彼らが奪ったのは、幻獣の命だけではない。正確な真実を届けようと身を削ってきた、彼の誇りそのものだ。
私はこの巨大な悪意の正体を、絶対に暴いてみせる。




