第26話 偽りの翻訳官と灰冠狼ルゥ
「……宮廷異語局からの正式な通達だ。セドリック・ヴァール翻訳官。君の幻獣語翻訳官としての全資格を、事態が解明されるまで一時停止とする」
無機質な通達の声が、調査室の空気を重く沈み込ませた。
急報を持って飛び込んできた役人に続き、異語局の上級監査官が数名の警備兵を伴って幻獣証言調査室に踏み込んできたのは、つい先ほどのことだった。
監査官はセドリックに対し、身分証と公式な記録板の提出を求めた。セドリックは表情一つ変えず、静かにそれらを卓上に置いた。
「地方の商人からの告発状によれば、君が作成したとされる翻訳記録によって、彼らが保護していた幻獣が不当に危険個体に指定され、一家は近隣からの排斥を受けて破滅の憂き目に遭ったという」
監査官は、証拠物件として提出された一枚の書類――ひどく皺の寄った『地方提出用の翻訳写し』を机に広げた。
「これが問題の書類だ。確かに、君の名前が記されている」
私はセドリックの隣に立ち、その書類を覗き込んだ。
「……ヴァール様、これは」
「ああ」
セドリックは書類を一瞥し、低く呟いた。
そこには、彼の手書きの署名はなかった。代わりに押されていたのは、擦れて薄くなった『宮廷異語局の旧式転記証印』と、『実在する過去の案件番号』のスタンプだった。
前回の試験審理で、セドリック自身がマティアス審理官に指摘したばかりの、旧制度の致命的な欠陥。
地方の役所は、わざわざ王都の中央に原本照会をする手間を省くため、この証印と案件番号さえあれば「あの優秀なセドリック本人が訳したものだ」と盲信し、写しを正式な書類として受理してしまうのだ。
「……問題の写しの内容はこうだ」
監査官が書類を指差した。
「対象個体は、地方の保護施設に収容されている灰冠狼の『ルゥ』。この写しには、ルゥが『私は人を襲う。人間の肉を喰らうのが好きだ』と自白したと記されている。この恐ろしい供述が決定打となり、ルゥは危険個体として処分が決定し、現在王都の施設に移送され、処分の実行を待っている状態だ」
人を襲う、と自白した。
私はその文面を見て、強烈な違和感を覚えた。
「ヴァール様。この案件に、見覚えはありますか?」
「ない」
セドリックは即座に、きっぱりと答えた。
「私はこの灰冠狼の聴取を行ったことはないし、中央の記録保管庫を調べてもらえればわかるが、この案件番号に対応する原本には、別の幻獣の全く異なる記録が残されているはずだ。……これは、私の名義を騙った偽造書類だ」
「原本、送付経路、当日の勤務を、こちらで調べる」
監査官は冷ややかに言い放った。
「しかし現状、局の証印と実在する案件番号が使われている以上、名義の冒用か、内部の不正かを確認する必要がある。この停止は有罪認定ではない。調査が終わるまで、君は異語局への立ち入りと、翻訳業務の一切を禁ずる」
そう告げると、監査官たちは書類と身分証を回収し、嵐のように去っていった。
静まり返った調査室に、私とセドリックだけが残された。
彼の机の上には、いつも肌身離さず持っていた万年筆だけが、主を失ったように転がっている。
「……ヴァール様」
私は彼に向き直った。
セドリックは窓の外に視線を向けたまま、静かに口を開いた。
「私の名前で、ルゥが処分されるところだったのか」
彼は机の万年筆へ手を伸ばし、途中で止めた。
「自分で調べれば、記録に触れたことまで疑われる。だが、黙って待っている間にも――」
「監査官に、当時の行動を説明してください」
私は彼の前へ、白紙を置いた。
「説明までやめないで。私たちは、あなたの話も他の人の話と同じように確かめます」
セドリックはしばらく紙を見ていた。
「君は、調査に入るのか」
「ルゥの行動を調べます。あなたと一緒に働いていることは申告します。私が集めた資料は、別の担当にも確認してもらう」
私は彼を見た。
「あなたを信じています。でも、その気持ちを証拠の代わりにはしません」
彼は深く息を吐き、万年筆を取った。
「当日の出張命令から書く。照会先も、覚えている範囲で残す」
いつもの筆音が戻った。その音を聞いてから、私は記録板を抱えた。
私は手袋をはめ、彼に一度だけ頷いて、調査室を飛び出した。
灰冠狼のルゥが移送されているという、王都の隔離施設へ向かう馬車の中。
私は監査官が残していった『偽りの翻訳写し』のコピーを睨みつけていた。
「『私は人を襲う。人間の肉を喰らうのが好きだ』……」
声に出して読んでみると、その違和感はさらに際立った。
セドリックなら、話者が「好きだ」と言えばそのまま訳す。感情のある語だから偽物だ、とは言えない。
ただ、写しでは曖昧な箇所も聞き返しも一つとして残されていなかった。普段の彼の記録とは違う。それも手掛かりにはなるが、証明にはならない。
そして何より、灰冠狼という種族の生態だ。
灰冠狼は、頭部に灰色の美しい冠毛を持つ狼型の幻獣。群れで行動する時は勇敢だが、単独で人里に降りて無差別に人間を襲うような性質は持っていない。
隔離施設に到着し、私は管理人に身分証を提示して地下の収容区画へと入った。
「灰冠狼のルゥですね。あそこの一番奥のケージです。凶暴ですから、絶対に鉄柵に近づかないでくださいよ」
管理人の忠告を背に受けながら、私は暗い廊下を進んだ。
一番奥の、分厚い鉄格子で囲まれた暗いケージ。
私は足音を忍ばせ、ルゥを刺激しないようにゆっくりとケージの前に立った。
「ルゥ……」
そっと呼びかけると、ケージの奥で丸まっていた灰色の毛玉が、ビクッと跳ね上がった。
そこにいたのは、人を襲う凶悪な獣などではなかった。
ルゥは私の姿――人間の姿を見るなり、耳を完全に後ろへ伏せ、尾を両足の間にきつく挟み込んで、ケージの最も暗い隅っこへと逃げ込んだ。
そして、壁に背中を押し付けるようにして丸まり、ガタガタと全身を激しく震わせている。
唸り声一つ上げない。牙を剥くこともしない。
ただひたすらに、人間を恐れ、怯え切っていた。
「……これが、『人間の肉を喰らうのが好きだ』と言った幻獣の姿ですか?」
私はケージの前で、静かに怒りを燃やした。
今は怯えている。ただ、それだけで過去に攻撃しなかったとは言えない。だから、いつ、どこで、どんな声を聞いたとされているのかを、記録まで戻って調べる。
誰かが、この臆病で無害なルゥに濡れ衣を着せ、危険個体に仕立て上げて処分しようとしている。セドリックの信頼という重い対価を支払わせてまで。
「待っていてね、ルゥ。ヴァール様も、あなたも、私が必ず助けるから」
声を出さずにいるルゥの震える背中を見つめながら、私は行動鑑定官としての決意を新たに固めた。




