第25話 二つの署名
王国法務院、第一審理室。
重厚なオーク材の扉が閉ざされたその室内には、張り詰めた空気が満ちていた。
「――以上で、検証作業を終了します」
静寂を破ったのは、宮廷異語局の若手翻訳官、アイラ・ベルの声だった。
彼女はセドリックの後輩にあたる、二十代半ばの翻訳官だ。群唱鳥の翻訳資格を持つ彼女も、今は信じられないものを見るような顔をしていた。
「……どうだ、ベル翻訳官。結論は出たか」
上座に座るマティアス・レーン審理官が、銀縁眼鏡の奥から鋭い視線を向ける。
「はい……」
アイラは手元の書類を震える手で持ち上げた。
今日この場で行われていたのは、私とセドリックが徹夜で作り上げた『幻獣供述記録・作成手順』の有効性を確かめるための、試験審理だ。
アイラと、王立幻獣舎から呼ばれたマルタ飼育長の二人に、群唱鳥の鳴き声を記録した録音魔具の音声と、見学した別職員が独立に記した配置と順番の記録、確認用の発声資料を渡し、私たちの完成訳を伏せ、手順に従って訳を組み立ててもらう試験である。魔力の意味層まで保存できる異語局の録音魔具を使った。普通の音声録音では、この検証はできない。
「録音された音声の断片を、フェルン鑑定官が作成した行動鑑定のチェックリスト――『個体の配置』と『発声の順番』という文法規則に当てはめて再構築しました」
アイラは、少しだけ声のトーンを上げて読み上げた。
「『夜中、第三倉庫の裏から、人間が冷たい薬の入った黒い箱を荷車で持ち出して運んでいった』。……これが、群唱鳥たちの証言の全容です」
その言葉が響いた瞬間、私は自分の膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。
「間違いないかい、アイラ殿」
隣に座っていたマルタ飼育長が、優しく、しかし確かな自信を持って尋ねた。
「ええ。マルタ飼育長がチェックリストから導き出した『状況・対象物・行動』の枠組みに、私が聴き取った単語を当てはめたら、パズルのように完璧に意味が通りました」
アイラは、見学席に座るセドリックの方を振り返った。彼女は普段、七つの資格を持つセドリックを神格化し、「ヴァール先輩にしかできない神業」だと彼の能力を崇拝していた。
「先輩……私、先輩の卓越した能力がないと、こんな複雑な集団言語なんて絶対に翻訳できないと思っていました。でも、この手順書通りにやれば、私でも……彼女たちの言葉が分かったんです」
「それは君の技術が確かだからだ、アイラ。よくやってくれた」
セドリックは静かに頷き、アイラの労をねぎらった。
「……見事だな」
マティアス審理官が、感嘆の息を漏らした。
彼は私たちが提出したマニュアルを手に取り、パラパラとページをめくった。
「翻訳官の『聴紋』による音声記録と、鑑定官の『行動チェックリスト』による文脈の補完。少なくとも別の有資格者が、この記録をたどって同じ訳に到達できた。……属人的な奇跡ではなく、法的に検証可能な『手順』として見事に成立している」
マティアス審理官はペンを取り、私たちの提出した試案の表紙に、法務院の承認を示す朱色の印を力強く押し付けた。
「指定案件で用いる試験様式として承認する。今は調査と制度検討の補助資料だ。一般の裁判での証拠能力を認めたわけではない。その線は、表紙にも明記してほしい」
「ありがとうございます……!」
私は思わず立ち上がり、深く頭を下げた。マルタ飼育長が私の肩をぽんと叩いて微笑んでくれる。
「待ってくれ、レーン審理官」
喜びの空気を引き締めるように、セドリックが口を開いた。
「新様式の運用開始にあたり、一つ提案がある。記録書のフォーマットについてだ」
「なんだね?」
「旧制度では、地方の役所や裁判所に翻訳の写しを提出する際、『宮廷異語局の転記証印』と『案件番号』さえあれば、中央の原本への照会を省略できるという慣習があったはずだ」
セドリックの指摘に、マティアス審理官は少し眉をひそめた。
「確かに、迅速な処理のために地方ではそのような運用が黙認されていたが……それが何か?」
「それでは、偽造が容易すぎる」
セドリックは冷徹な声で断言した。
「悪意ある者が古い転記証印を偽造し、実在する過去の案件番号を流用して『本人訳』として写しをでっち上げれば、地方ではそのまま通ってしまう。新様式では、この穴を塞ぎたい」
「なるほど。具体的には?」
「新様式には、必ず『固有の照会番号』と『原本の保管所在』を明記する欄を必須とする。番号を書くだけでは流用を防げない。重要な指定では、保管先へ内容を照会し、回答を記録へ綴じることも必須にしたい」
「……妥当な提案だ。承認しよう」
マティアス審理官は頷き、新様式への追加項目をその場で書き加えた。
こうして、私たちが作り上げた手順は、法的な網の目をより強固なものにして、正式に社会の制度としての第一歩を踏み出したのだった。
夕暮れの幻獣証言調査室。
法務院から戻った私たちは、西日の差し込む窓際の机で、一枚の真新しい書類と向き合っていた。
王国法務院の紋章と、宮廷異語局、幻獣管理院の紋章が並んで印刷された、真新しい公式フォーマット。
『幻獣供述記録 試験様式第一号』。
「……これが、私たちの新しい武器ですね」
私は書類の束を愛おしそうに撫でた。
言葉が通じないからと無視され、理不尽に処分されてきた幻獣たちの声が、まずはこの紙の上で、調べ直せる情報として残るようになる。
「ああ。だが、この書類はまだ未完成だ」
セドリックは自分の万年筆を取り出し、キャップを外した。
彼は書類の末尾にある『翻訳担当官』の欄に、迷いのない流麗な筆跡で自分の名前を書き込んだ。
そして、その万年筆を逆さに持ち、私の方へすっと差し出した。
「君の署名が入って、初めてこの記録は完成する」
「……はい」
私は彼から万年筆を受け取った。
その際、私の指先と彼の熱を持った指先が、微かに触れ合った。
いつも彼が持ち歩いている、少し重みのある万年筆。そこから伝わってくる彼の体温と、インクの冷たい香りが、私の胸の奥をぎゅっと締め付けるように甘く揺らした。
私は小さく息を吸い込み、姿勢を正した。
そして、『行動鑑定官』の欄に、一文字一文字、心を込めて自分の名前を書き記した。
『翻訳担当官:セドリック・ヴァール』
『行動鑑定官:リーゼ・フェルン』
並んだ二つの名前。
それは、私の不遇だった見習い時代や、彼がたった一人で背負ってきた正確さへの重圧を、過去のものにしてくれる確かな証だった。
愛しているだとか、好きだとか、そんな直接的な言葉は一つもない。
けれど、自分の人生を懸けた仕事の結晶に、対等な立場で互いの名前を並べて残すこと。それは私にとって、どんな甘い愛の言葉よりも深く、強く、彼と結びついていることを実感させてくれるものだった。
「……これで、完成ですね」
私が微笑みかけると、セドリックも深く、満ち足りた瞳で私を見つめ返した。
「ああ。よくやってくれた、リーゼ」
静かな夕暮れの光の中、私たちは言葉を交わさず、ただ並んだ二つの署名を見つめていた。互いへの敬意と、胸の奥に芽生えた特別な感情を、そのインクの滲みに重ね合わせるようにして。
バンッ!!
その穏やかな空気を引き裂くように、調査室の扉が乱暴に開け放たれた。
「ヴァール様! いらっしゃいますか!」
飛び込んできたのは、宮廷異語局の連絡役の役人だった。その顔は蒼白になり、額にはびっしりと冷や汗が浮かんでいる。
「どうした、騒々しい」
セドリックが眉をひそめて立ち上がった。
「た、大変です! 先ほど、地方の商人から王国法務院宛てに、異語局を揺るがす重大な告発状が届きました!」
「告発状だと?」
「はい! その商人の訴えによれば……」
役人は息を呑み、震える声でその恐るべき内容を口にした。
「『セドリック・ヴァール名義で提出された過去の翻訳記録のせいで、無実の家族が破滅した。あの翻訳は、意図的に捏造された偽物だ』と……!」
捏造。
その言葉が、耳を疑うような重さで室内に響き渡った。
「なっ……あり得ません! ヴァール様が翻訳に推測や嘘を混ぜるわけがない!」
私が即座に叫ぶと、役人は悲痛な顔で首を横に振った。
「ですが、告発状には『宮廷異語局の転記証印』が押された、ヴァール様名義の写しが同封されていました! 法務院は現在、事態の重大性を鑑み、ヴァール様の翻訳官資格の『一時停止』を検討しています!」
私は隣に立つセドリックを見た。
彼は顔色一つ変えていなかったが、その視線は、先ほど彼自身が提案して追加された新様式の項目――『旧制度の転記証印による偽造の危険性』を記したメモへと、静かに落ちていた。
私たちの作った制度が動き出したその瞬間に、彼の過去と誇りを引き裂く刃が振り下ろされたのだ。




