第17話 足元を読む
「橋の下に近づく人間を、遠ざけようとしている……?」
私の言葉に、現場監督は信じられないものを見るような顔をした。
「馬鹿なことを言うな! あいつは人を殺そうとしたんだぞ! それを庇うような真似を――」
「静かに」
現場監督の怒鳴り声を、セドリックの冷たく鋭い声が遮った。
「現場調査の依頼で来ています。翻訳できない以上、まず行動を調べる。通路に異常があれば、作業員にも危険がある」
セドリックは現場監督を鋭い視線で射抜いた後、私に向かって頷いた。
「フェルン飼育官。君の観察を続けてくれ」
彼が私の肩書きを呼び、完全に私を現場の主導者として扱ってくれている。その事実が、私の中にあった微かな迷いを打ち消してくれた。
私は鎖に繋がれた黒角竜、ガロの動きをもう一度、隅々まで観察した。
ガロはシューッと太い鼻息を吐きながら、前肢で地面をドスン、ドスンと叩いている。一見すると周囲の人間を威嚇しているように見えるが、よく見ると違う。
「……ヴァール様。ガロの頭の位置を見てください」
私はガロの巨体を指差した。
「普通、幻獣が目の前の敵を威嚇する時は、相手を真っ直ぐに睨みつけて頭を高く上げます。でも、今のガロは違います。頭を極端に低く下げ、下顎を地面に擦り付けるようにしています」
そして、前肢で地面を叩く動作も、ただ闇雲に暴れているわけではない。一定のリズムを刻みながら、橋脚のある方向から手前側へと、土を掻き出すような動きをしている。
「ガロは、私たち人間を見ていない。彼の注意は『地面の奥深く』に向いているんです」
カリカリ、とセドリックの万年筆が記録板を走る。
彼は書き込みながら、私に向かって静かに問いかけた。
「下顎を地面に擦り付け、土を掻く。……フェルン飼育官、その行動は黒角竜の生態において、何を意味する?」
宮廷異語局の優秀な翻訳官が、まるで熱心な生徒のように私に教えを乞うている。彼に頼られているという事実が、私の頭をよりクリアにしてくれた。
「黒角竜の皮膚は非常に分厚く硬いですが、下顎から首にかけての部分だけは、骨伝導で地面の振動を感知しやすくなっています。彼らは仲間同士で、遠くの地震や地盤の緩みを伝える時、顎を地面につけて振動を読み取るんです」
私は記憶の中にある、黒角竜の過去の飼育記録や生態メモを引っ張り出した。
「ガロは、地面の奥から伝わってくる『何か』を感知して、激しく警戒しているんです」
「地鳴りか? だが、ここは大規模な橋梁工事の現場だ。杭打ちや重機の振動など、日常茶飯事だろう。なぜ今になって、特定の振動にだけパニックを起こす?」
セドリックの的確な疑問に、私は力強く頷いた。
「その通りです。ガロはこの現場に長年いるベテランですから、いつもの土木工事の地響きには慣れているはずです」
私はガロが土を掻き出している方向――巨大な橋脚の基礎部分を見据えた。
「ガロがこれほどまでに警戒して下顎を震わせるのは、それが彼らにとって未知の『不規則で人工的な振動』だからです。現場の飼育日誌にも、通常の杭打ちでは顎を下げないとあります。今日は工事を止めても続いているので、別の振動源を疑っています」
セドリックは私の説明を一つも漏らさず、宮廷異語局の公式な記録板に刻み込んでいく。
彼は私の見解を疑わず、その論理的な組み立てに深い敬意を払ってくれていた。彼のペンが走るたび、何を見てどう考えたかが、後から確かめられる記録になっていく。
「……つまり、ガロは人間を攻撃したわけではない」
セドリックが、記録板から顔を上げた。
「地下で起きている異常な振動という『危険』から、自分の近くにいた技師を遠ざけるために、突き飛ばしたということか」
「その可能性はあります。ただ、技師さんを突き飛ばした瞬間の状況は、別に確かめる必要があります」
私は現場監督に向き直った。
「監督さん。橋脚の基礎部分の地下で、今、何か特殊な工事を行っていますか? 例えば、岩盤を砕くような作業とか」
「ば、馬鹿な! 基礎工事はとうの昔に終わっている! 今は橋の上部を建設している段階だ。地下で作業などしているはずがない!」
「……だとしたら、急いで確認する必要があります」
私は背筋に冷たいものが走るのを感じた。
「ガロは、誰もいないはずの地下で起きている『危険な振動』に怯え、私たちに警告してくれているんです」
現場監督は「幻獣の勘など信じられるか」と抵抗したが、別の技師が基礎の確認に同意したため、確認を承諾した。発破作業の資格を持つ技師二人も立ち会った。
ガロを刺激しないよう、私たちは大きく迂回して橋脚の基礎部分へと向かった。
重厚な石積みの土台周辺は、静まり返っていた。一見すると何の異常もないように見える。
「ほら見ろ、何もないじゃないか」
現場監督が鼻で笑った。
「だが、土の色が違う」
セドリックが、土台のすぐ脇、少しだけ不自然に盛り上がっている部分を指差した。
「最近、掘り返された痕跡があるな」
私は監督に頼み、数人の作業員を呼んでその部分の土を慎重に掘り返してもらった。
シャベルが土を掘る音が、やけに大きく響く。
数分後。
「……監督! 何か、箱のようなものが埋まっています!」
作業員の一人が声を上げた。
掘り出されたのは、黒い防水布で厳重に包まれた、木製の箱だった。しかも一つではない。土台を取り囲むように、一定の間隔でいくつも埋められている。
「なんだこれは……工事の設計図には、こんなものは……」
発破技師が作業を止め、防水布の表示を確かめた。全員を下がらせてから、露出した隙間を覗き込んだ。
中には、黒光りする細かい砂粒のようなものが、ぎっしりと詰め込まれていた。その中心には、チリチリと微かな火花を散らしながら振動している、魔力式の遅延起爆装置が埋め込まれている。
「爆破用の魔鉱粉だ。触るな、全員離れろ!」
発破技師の声に、セドリックが私の腕を引いた。現場監督も、転がるように後ずさる。
遅延式の装置だという。だが、いつから動いているかは、誰にも分からなかった。
私はガロの繋がれている方向を振り返った。
ガロが何を理解していたかは分からない。それでも、あの反応をただの暴走として片づけていたら、私たちはこれを見逃していた。
「……退避しろ!!」
セドリックの張り裂けるような叫び声が、現場に響き渡った。
木箱の中の起爆装置が、不気味な赤い光を放ち始めていた。橋が崩れ落ちるまでのタイムリミットは、もうすぐそこまで迫っていた。




