第16話 翻訳官が役に立たない日
王都の南西、大きな河川を跨ぐように建設中の橋梁工事現場は、怒号と土埃に包まれていた。
「ロープを引け! 緩めるな!」
「魔術班、拘束の術式を重ねろ!」
無数の作業員や警備隊員たちが取り囲むその中心で、一頭の巨大な幻獣が鋼鉄の鎖に縛り上げられていた。
黒角竜の『ガロ』。
見上げるほどの巨体は漆黒の硬い鱗に覆われ、鼻先には岩盤すら砕く太く鋭い角がそびえている。本来は大規模な土木工事において、その圧倒的な腕力で資材を運び、地固めを行うための頼もしい労働力だ。温厚で忍耐強い性格の彼らが人間に牙を剥くことは、極めて稀である。
だが今、ガロは血走った目で周囲の人間を睨みつけ、地響きのような荒い鼻息を吐きながら、拘束を振り解こうと身をよじっていた。
「宮廷異語局の者だ。状況を報告しろ」
現場の喧騒を切り裂くようなセドリックの通る声に、現場監督と思われる初老の男が血相を変えて駆け寄ってきた。
「おお、ヴァール殿! それに管理院からの使いの方ですね」
「私は幻獣証言調査室のフェルン飼育官です。怪我人が出たと聞きましたが」
私が尋ねると、現場監督は忌々しげにガロを睨んだ。
「ええ。うちの若手技師がやられました。つい一時間ほど前、橋脚の基礎部分の測量に向かおうとしたところを、突然あいつが背後から突進してきて……頭突きで三メートル近く突き飛ばされたんです」
「突然、ですか? それまでガロに変わった様子は?」
「何もありませんよ! いつも通り大人しく資材を運んでいました。それが急に狂ったように暴れ出したんです。技師は腕と肋骨を折って病院へ運ばれました。管理院の役人はすでに危険個体の指定書類を書き上げています。あとは異語局の最終聴取が終われば、すぐにでも討伐隊が処分を実行する手はずになっています」
監督の言葉に、私は胸を痛めた。
人身事故は危険指定の理由になる。だが、隔離後の調査を経て判断するはずの処分が、ここでも既定の結末として扱われていた。
「……処分前の規定手続きを行う。下がっていろ」
セドリックは黒い外套を翻し、鎖に繋がれて荒れ狂うガロの正面へと歩み出た。
彼の手にはいつもの革表紙の記録板と万年筆が握られている。
ガロは目の前に立ったセドリックに対し、巨大な頭を振って威嚇行動をとった。シューッという、空気が漏れるような重い音がその鼻孔から吹き出す。
セドリックは、鼻息と足踏みを別々に記録した。
「予想していた通りだ。私が翻訳できる発声はない」
出発前から分かっていた限界だった。黒角竜の意思疎通は振動を使う。聞き慣れない声を辞書で調べれば済む相手ではない。
彼は空欄に『翻訳不能』と書いた。その一行の後で、ペンが止まった。
「おい、どうしたんだ翻訳官殿!」
現場監督が遠くから急かすように叫んだ。
「あの化け物が何を言っているのか、早く教えてくれ! それとも、人間を殺そうとした言い訳すらできないほどのただの獣に成り下がっちまったのか!」
周囲の警備隊員たちも「早く処分の許可を出せ」と騒ぎ立てる。
セドリックは唇を噛み締め、その場に立ち尽くしていた。
推測を訳文に足さない。言葉が聞こえなければ、彼には何も訳すことができない。それは翻訳官としての絶対の倫理だ。だが、自分が「分からない」と宣言すれば、ガロは一切の弁明の機会を与えられないまま、ただの暴走した獣として殺されることになる。
言葉の正確さを誰よりも重んじる彼が、言葉を持たない相手の前に立ち、己の無力さに打ちのめされている。その背中が、ひどく孤独に見えた。
「……ヴァール様」
私は歩み寄り、彼の手元にある記録板を指でそっと叩いた。
セドリックがハッとして私を見下ろす。
「言葉がないなら、私が読みます」
私は彼に向かって、力強く微笑みかけた。
「ヴァール様は、私の見解を記録して、あの大人たちを黙らせるための盾になってください。翻訳できないことは、そのまま記録に残しましょう。事故の前後を、一緒に確かめてください」
「フェルン……」
セドリックは微かに目を見張り、やがて、その強張っていた肩の力をすっと抜いた。
「……ああ。そうだったな」
彼はいつもの冷静さを取り戻し、万年筆を構え直した。そして、私に向かって小さく顎を引いた。
「本件において、私には対象個体の意思疎通を翻訳できない。これより、幻獣証言調査室のフェルン飼育官が主導して調査を行う。……頼んだぞ、リーゼ」
初めて、彼が役職名ではなく私の名前を呼んだ気がした。
私は一つ頷き、荒ぶる黒角竜の正面へと一歩踏み出した。
私が近づくと、ガロは再びシューッと太い息を吐き出し、前肢で地面をドスン、ドスンと強く叩き始めた。
「大人しくしろ、化け物!」
警備隊員が鎖を引こうとするのを、私は手で制止した。
「待ってください。ガロはただ闇雲に暴れているわけじゃありません」
私はガロの瞳の動きと、その巨体が向いている方向に注意を払った。
ガロは私やセドリックを威嚇しているのではない。彼の視線は常に、建設中の巨大な橋の方角を向いている。
「監督さん。怪我をした技師の方は、測量に向かおうとしていたと言っていましたね?」
「え、ええ。橋脚の基礎部分、つまりあの橋の下へ向かって歩き出した時に、背後からやられました」
「少し、実験させてください」
私は監督と数名の警備隊員にお願いして、橋梁の現場を左右に横切るように歩いてもらった。
ガロは鼻息を荒くしてはいたが、人間が横へ移動する分には、特に強い威嚇行動は見せなかった。
しかし。
「では次に、あそこの『橋の下』に向かって、まっすぐ歩いてみてください」
私の指示で、一人の警備隊員が橋脚の土台がある方向へ数歩踏み出した瞬間だった。
ドンッ、と地面が跳ねた。
ガロが全身の筋肉を膨張させ、鋼鉄の鎖がちぎれんばかりの勢いで暴れ出したのだ。長い尾が地面を叩き割り、強靭な顎を地面に擦り付けて、全身で「それ以上進むな」と拒絶の意志を示している。
「うわあっ!」
警備隊員が慌てて後ずさると、ガロの暴れ方は少しだけ弱まった。
「……なるほど」
私はその光景を真っ直ぐに見据え、確信を持って言った。
「ヴァール様。ガロは、特定の人間を憎んで攻撃したわけではありません。技師さんを突き飛ばした理由も、進んだ方向と関係があるかもしれません」
「では、何故だ?」
「ガロは、『橋の下』へ人間が近づくことだけを、必死に止めようとしているんです」
言葉の通じない沈黙の幻獣。
だが、彼の行動は明確なメッセージを発していた。
橋の下に、何があるのか。なぜガロは、自分が殺される危険を冒してまで、人間をそこから遠ざけようとしているのか。
翻訳官の辞書が通用しない現場で、行動から真実を紡ぎ出す私の仕事が、今まさに始まろうとしていた。




