第14話 正しい言葉が間違う時
王都の治安維持局。その無機質な取調室が立ち並ぶ廊下で、私たちは分厚い書類の束を抱えた一人の男と対峙していた。
王国法務院の審理官、マティアス・レーン。
幻獣証言調査室の試験運用に対し、『幻獣の声を法的証拠とすることは認めない』という厳しい警告状を送りつけてきた張本人だ。銀縁の眼鏡の奥にある怜悧な双眸は、いかなる私情も挟まない冷徹な法の番人としての矜持に満ちていた。
「……今回の密猟事件、実行犯と闇仲買人の起訴については法務院としても異存はない。現場で押収された特殊な切断魔具、そして角の粉末と裏帳簿。これだけ確たる物証が揃っていれば、起訴の手続きを進める根拠になる」
マティアス審理官は、抑揚のない事務的な声で告げた。
「ただし、取引所全体の帳簿を差し押さえる申請は、この資料では認められない」
「同じ市場へ流れている点は、調べる価値があると思います」
セドリックが答えると、マティアスは頷いた。
「照会まで止めるつもりはない。しかし共通の取引所を使うことと、共謀して密猟を命じることは別だ。誰のどの取引を疑うのか、範囲を示してほしい」
私は机の帳簿を見た。同じコードがある。それだけで、その先に同じ指示者がいると思いかけていた。
「それと、供述の扱いについては、改めて確認したい」
マティアスはリラの聴取記録を取り出した。
「『赤い人間』だろう?」
マティアス審理官の鋭い指摘に、セドリックは口を噤んだ。
審理官は、呆れたようにため息をついた。
「報告書は読ませてもらったよ。君は確かに、母鹿の言葉を『赤い人間』と正確に逐語訳したそうだね。……もしあの現場に、そこのフェルン飼育官がおらず、行動観察による言葉の補正が行われていなかったらどうなっていた?」
審理官の冷たい視線が、私に向けられた。
「君たちは、無実の近衛兵たちの中に犯人がいると決めつけ、国家の重鎮である王族の警護隊を不当な尋問にかけ、冤罪を生み出していただろう。……幻獣の言う『赤』と、我々人間が認識する『赤』は、全く違うものだったそうじゃないか」
その言葉は、ぐうの音も出ないほどの正論だった。
「幻獣と人間は、見ている世界も、感覚器の作りも違う。君たち異語局の翻訳官がどれほど正確に音声を文字に変換しようとも、その言葉が人間の辞書と同じ意味を持っているとは限らない」
マティアス審理官は、手元の書類をトントンと揃え直した。
「私はね、決して幻獣が憎くてこんなことを言っているわけではない。法を司る者として、誤判のリスクを恐れているんだ。今回のように決定的な感覚差による『誤認』が生じるものを、どうして法廷での証拠として採用できる? 無実の人間を冤罪で破滅させるくらいなら、幻獣の言葉など最初から法廷に持ち込むべきではない。……少しでも法を学んだ者なら、私の懸念が理解できるはずだ」
その厳格な態度は、単なる意地悪や権威主義によるものではなかった。
彼なりの正義と、人間社会のルールを守るための確固たる信念がそこにあった。
「……はい。レーン審理官の懸念は、完全に正しいです」
私は小さく一歩前に出て、真っ直ぐに彼を見つめ返して言った。
私のあっさりとした同意に、マティアス審理官はわずかに目を丸くした。私が「幻獣は被害者なんだから人権を認めろ」と感情的に噛み付いてくると予想していたのだろう。
「お前たちが正しいと言うなら、なぜ――」
「幻獣は、言葉を持ちます。でも、だからといって彼らが常に『正しい真実』を語るわけじゃありません」
私は、自分がこれまで見てきた彼らの姿を思い浮かべた。
優しい職員を庇って『知らない』と嘘をついたアルク。怪我をした飼育員を思って、結果的に窃盗という罪を犯してしまったミーネ。そして、恐ろしい火傷の熱と匂いを『赤』という言葉で表現したリラ。
「彼らは彼らの世界を生きています。私たち人間とは違う時間を生き、違う感覚で世界を見ている。だから、彼らの放つ言葉は、人間社会の物差しで測れば『間違い』になることもたくさんあるんです」
私は静かに、けれど力を込めて言葉を紡いだ。
「言葉が通じるから、可愛いからといって、彼らの声を無条件に絶対視するのは危険です。審理官が危惧される通り、盲信は冤罪を生みます。……私たち調査室は、幻獣の言葉をそのまま正義の鉄槌にしたいわけではありません。彼らの言葉が、人間社会でも通用する形になるように『検証』するための場所なんです」
私が言い切ると、廊下に深い沈黙が落ちた。
マティアス審理官は探るような目で私を見下ろし、やがて小さく鼻を鳴らした。
「……少しは、現実が見えているようだな」
彼はそれ以上私を責めることはせず、踵を返した。
「だが、現状のルールは変わらない。今回の密猟事件は、押収された物証の範囲内で、実行犯と仲買人のみを起訴する。判決は裁判所が下す。取引所への照会は続ける。追加資料が出れば、強制捜査の範囲は改めて判断する。君たちは、その間に供述を検証する手順を出してほしい」
それだけを残し、審理官は足早に去っていった。
彼の背中が見えなくなった後、私は大きく息を吐き出した。
「フェルン飼育官」
隣で沈黙を守っていたセドリックが、静かに私の名を呼んだ。
見上げると、彼の氷のような瞳が、ひどく穏やかな光を湛えて私を見下ろしていた。
「……どうかしましたか?」
「いや」
セドリックは少しだけ口元を緩め、記録板を抱え直した。
「君が、私の翻訳能力を『絶対の真実』として特別扱いしない人で、本当によかったと思っただけだ」
「えっ」
「世間は、私が七つの言語の資格を持っているというだけで、何でも完璧に訳せる魔法使いのように扱う。だが君は違う。君は私の訳した言葉が『間違う』ことを前提に置き、その上でどう検証するかを考えてくれている。……翻訳官として、これほど安堵することはない」
彼の言葉に、私は胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
セドリックは、自分の能力の不完全さを誰よりも理解している。だからこそ「推測を足さない」という職業倫理で自分を厳しく律してきたのだ。
私が彼の翻訳を「間違えるもの」として受け入れたことは、彼のその孤独な重圧を、少しだけ軽くすることができたのかもしれない。
私たちは、互いの足りない部分を補い合うだけではなく、仕事への向き合い方――真実に対する価値観の深い部分で、確かに共鳴し始めていた。
「でも、ヴァール様」
私は温かい気持ちを胸の奥にしまい込み、現実の厳しい壁へと視線を戻した。
「マティアス審理官の言う通り、今のままでは手詰まりです。闇仲買人の帳簿という『物証』だけでは、その背後にいる上位の指示者へは届かない。かといって、幻獣の声だけでは法廷は動いてくれません」
このままでは、実行犯の小悪党を捕まえるだけで終わってしまう。
また別の人間が、同じように制度の穴を突いて幻獣を傷つけ、利益を貪るだろう。
「……幻獣の声を、どうすれば人間社会の証拠として認めてもらえるのでしょうか」
私たちの前にそびえ立つ『法と制度』という分厚い壁。
それを突き崩すための明確な方法を、私たちはまだ見つけられずにいた。




