第12話 色ではなく熱
「人間の辞書にある『赤』と、鈴角鹿が語る『赤』は、全く違うものを指しているはずです」
私の言葉に、狩猟園の臨時救護所は一瞬の静寂に包まれた。
「全く違うものを指しているだと?」
警備隊長が怪訝な顔で私を睨み下ろした。
「戯言を言うな。赤は赤だろうが! 言葉を喋るなら、色の区別くらいついているはずだ」
「色の区別が全くつかない、とは言いません。ただ、人と同じ分け方をしているとは限りません」
私は、救護所の飼育記録を借りた。リラが産後に熱を出した時、母鹿同士で呼び交わしていた声の記録がある。
セドリックが、その記述に指を止めた。
「同じ語だ。辞書にも『熱を帯びた』という古い用例がある。私は最初の見出しだけで訳を決めた」
私たちは獣医官に作業場の火を遠ざけてもらい、リラが落ち着くのを待った。
冷たい赤布と、普段の治療で使う温かい白布。無理に近づけず、いつもの手入れの範囲で、何をどう呼ぶか聞いた。
赤布には、問題の語を使わない。温布には短く同じ語を返した。
「では、その人間の何がそうだったのか」
セドリックが問いを訳した。
「『腕。毛のないところ。熱くて、傷の匂いがした』」
これでようやく、探す特徴が一つ増えた。
「火傷や炎症のある腕かもしれません。でも、それだけで誰かを犯人とは決められません」
私が言うと、警備隊長は捜索担当を呼んだ。
数日前、境界で起きた小火で腕を傷めた男がいたという。ただ、その男を含め、事件時刻に園へ入れた者全員の所在を確認することになった。
近衛兵の勤務表も、調査から外さなかった。
「……見事だ」
隣に立つセドリックが、低く呟いた。
彼は私の顔を見下ろし、深い色の瞳に確かな感嘆を浮かべていた。
「彼らの住む環境が、言葉の定義そのものを作り変えている。私の学ぶ言語学の辞書には、決して載っていない視点だ」
「……私一人では、気づけませんでした」
私は首を横に振った。
「ヴァール様がリラの言葉を『赤い人間』と正確に訳してくださったからです。もし私が一人でリラの行動だけを見ていたら、『熱を怖がっている』という現状の観察で終わっていて、犯人の特徴まで絞り込むことはできなかったと思います」
言葉と行動のズレ。それが生み出す違和感こそが、人間と幻獣の感覚の境界線を越えるための鍵だった。
それから一時間もしないうちに、狩猟園の西の森を捜索していた近衛兵たちが、一人の男を両脇から抱え上げるようにして連行してきた。
「隊長。点検口の内側に、刃物と罠を持った男がいました。立入証を確認しようとすると逃げたため、確保しました」
男の右腕には包帯が巻かれていた。リラが立ち上がったのを見て、私はすぐに二人の間へ衝立を置いてもらった。
「反応は記録します。でも、火傷を怖がっているだけでも、同じことが起きます」
私は警備隊長に伝えた。
「この子の前へ置いて、犯人だと証明しようとしないでください」
その時。
カリカリ、という硬質な音が響いた。
振り返ると、セドリックが自身の手元にある公式の記録板――宮廷異語局の紋章が入った正式な書類に向かって、万年筆を走らせていた。
彼は最初の訳文を読めるまま残し、その隣に訂正の時刻と理由を書いた。
そして、その余白に綺麗な字でこう書き加えた。
『腕に熱と傷の匂いがある人間。初回の「赤」は色彩に限定されない。飼育記録、用例、追加聴取により訂正』
「……ヴァール様」
私は目を見開いた。
それは、彼が自分の翻訳の「間違い」を、公の記録の上で認めたということだ。
王族の覚えもめでたい宮廷異語局の優秀な翻訳官が、狩猟園の管理者や近衛兵といった大勢の他人の前で、下級飼育官の指摘を受けて自分の訳をあっさりと修正した。
「……これでいい」
セドリックは書き終えた記録板を確認し、何事もなかったかのようにペンをしまった。
「私は原文通りに訳したが、それは人間の辞書に当てはめただけの誤訳に過ぎなかった。意味を取り違えた翻訳は、真実ではない。君のおかげで、正確な記録を残すことができた」
彼は恥じるでもなく、誤魔化すでもなく、ただ事実を事実として受け入れていた。
私は、彼のその姿から目が離せなかった。
権威ある大人は、自分の間違いを認めることを恐れる。かつて私に罪をなすりつけた先輩も、私の報告を無視した役人たちもそうだった。自分の非を認めれば、立場が危うくなるからだ。
でも、彼は違う。
セドリック・ヴァールは、自分のプライドよりも、体面よりも、「正確な真実」を社会に残すことを最優先にする。間違いを隠さず、撤回できる。
その強烈なまでの誠実さが、私の中にあった彼への『仕事上の敬意』を、もっと深くて確固たる『人間としての信頼』へと変えていくのを感じた。
「おい、こいつの荷物からこんなものが出てきたぞ!」
近衛兵の一人が、男の荷物から押収した品を、布の上に並べた。
転がり出たのは、泥にまみれたロープや麻袋、そして――異様な形をした、ノコギリのような刃物だった。刃の部分には魔力を通すための術式が刻まれており、ただの狩猟用の道具ではないことが一目でわかる。
「……これは、幻獣の硬い角や骨を素早く切断するための特殊な魔具だ」
セドリックが、地面に落ちた刃物を見下ろして言った。
「角を狙った密猟の可能性がある。刃に残った血と毛を、ティルの傷と照合してもらおう」
密猟者。
その言葉に、現場の空気が再び張り詰めた。
鈴角鹿の角は、粉末にすれば希少な魔法薬の材料になる。市場に出回れば高値で取引されるものだ。
「だが、おかしいですね」
私は、震える火傷の男を見下ろした。
「この狩猟園は、近衛兵が厳重に警備しているはずです。こんな単独の密猟者が、どうやってフェンスを越えて森の奥深くまで侵入し、今日この場所にリラとティルがいることを正確に把握できたんでしょうか?」
私の疑問に、警備隊長もハッとしたように顔を険しくした。
点検口の鍵に壊された跡はなかった。男は、開いている時間を知っていたのかもしれない。
――誰かが、内部の情報を男に教え、手引きした。
ティルの事件に関わった可能性は高い。だが、まだ刃物の照合と、男自身の話を確かめる必要がある。
だが、その背後には、彼に角の切断を命じた上位の存在がいる。事件はまだ、終わっていなかった。




