第11話 赤い人間
王都の中心部から馬車に揺られること一時間。
北部の丘陵地帯に広がる貴族の狩猟園は、豊かな緑と手入れの行き届いた木々に囲まれた美しい場所だった。しかし今日のその場所は、異様な緊張感と喧騒に包まれていた。
石造りの管理棟の前に広がる中庭には、王族や高位貴族の警護のために派遣された近衛兵たちがずらりと整列している。彼らが身に纏っているのは、王家の威信を示す鮮やかな『真紅の制服』だ。
その物々しい警戒網を抜け、私とセドリックは現場である臨時救護所へと案内された。
「宮廷異語局の方ですね。お待ちしておりました」
白衣を血で汚した初老の獣医官が、足早に私たちのもとへやってきた。彼の背後には、頑丈な鉄柵で囲まれた隔離ケージがあり、その中で一頭の美しい幻獣が荒い息を吐いていた。
鈴角鹿の母鹿、リラだ。
鈴角鹿は、成獣になると角の空洞に風が通り、歩くたびに鈴を転がすような澄んだ音が鳴ることで知られている。非常に警戒心が強く、本来は森の奥深くに住む気高い幻獣だが、この狩猟園では特別に保護され、管理下で繁殖が行われていた。
「幼獣のティルは隣のテントで治療中です。何者かに刃物のようなもので後脚を深く斬りつけられましたが、幸い命に別状はありません」
獣医官はハンカチで額の汗を拭いながら、檻の中のリラを痛ましそうに見やった。
「問題は、母親のリラです。ティルが傷つけられた直後から極度の興奮状態に陥り、近づく人間すべてに威嚇を繰り返しています。ただ、先に来た翻訳官は、誰かを指していると。その後、軍務の呼び出しで交代を頼まれまして」
私はケージの中のリラを見た。
滑らかな淡褐色の毛並みは逆立ち、大きな黒い瞳には明確な怒りと恐怖が渦巻いている。前肢で地面を激しく掻きむしりながら、彼女は高く澄んだ、しかし悲痛な音色で鳴き続けていた。
リンッ、チリン、チリィィン。
私には、それがただの美しい鈴の音にしか聞こえない。
だが、隣に立つセドリックにとっては違う。
「……聴取する。フェルン飼育官、記録を頼む」
セドリックは黒い外套を翻し、ケージの正面に立った。
彼は目を閉じ、リラの放つ音の波形、そこに込められた魔力の振動に意識を研ぎ澄ませた。周囲の喧騒が嘘のように、彼が立つ場所だけが静寂に包まれたように感じられる。
やがてリラがひとしきり鳴き終えると、セドリックは静かに目を開け、抑揚のない声で翻訳結果を口にした。
「『赤い人間が、私の子を傷つけた。許さない。赤い人間が、私の子の血を流した』」
その言葉が響いた瞬間、周囲を取り囲んでいた狩猟園の管理者や近衛兵たちの間に、ざわめきが広がった。
「赤い人間、だと……?」
近衛兵の警備隊長が、険しい顔で前に出た。
「この狩猟園で『赤』を身につけている人間など、我々近衛兵しかおらん! まさか、我々の中に幼獣を傷つけた不届き者がいるというのか!」
「ヴァール殿! その翻訳は間違いないのか!」
狩猟園の管理責任者も慌てて詰め寄った。
「異語局の翻訳に推測は交えない。私はこの母鹿が発した音を、原文のまま正確に訳しただけだ」
セドリックは冷ややかに応じた。
「辞書の見出しでは『赤』です。ただし、服とは言っていない。制服だけで容疑者を絞らないでください」
「ええい、総員整列しろ! 事件発生時刻に配置を離れた者を徹底的に洗い出すぞ!」
警備隊長が怒号を上げ、赤い制服を着た近衛兵たちが慌ただしく動き始めた。
兵士たちの間に疑心暗鬼が広がり、現場の空気は一気に殺気立っていく。
私はその光景を横目で見ながら、手元の記録板にセドリックの言葉を書き写しつつ、ケージの中のリラから視線を外さずにいた。
「……」
私は眉をひそめた。何かがおかしい。
リラは「赤い人間」を許さないと訴えている。
もしその言葉通り、リラが『赤い服を着た近衛兵』に子供を傷つけられ、その色に対してトラウマや激しい怒りを抱いているのだとしたら。
なぜ彼女は、今この瞬間、目の前を忙しなく動き回っている何十人もの『赤い制服の近衛兵』たちを見て、パニックを起こさないのだろうか。
幻獣は、自分や家族を傷つけたものの特徴を強く記憶し、似た刺激に対して過剰に反応する。リラは興奮して地面を掻いてはいるものの、視線は兵士たちの赤い服に向けられていない。彼女の耳は兵士たちの足音ではなく、もっと別の方向――風上に向かってピクピクと動いている。
さらに、ケージのすぐ横には、狩猟園の境界を示す真っ赤な狩猟旗が何本も立てられ、風にはためいている。視界の端で赤色がちらついているというのに、リラはそれに対しても完全に無反応だった。
「ヴァール様」
私は記録板を胸に抱え、セドリックの袖を軽く引いた。
「リラの様子が変です」
「どうした?」
「リラは、視覚的な『赤色』には全く反応していません。あんなにたくさんの赤い制服や赤い旗が近くにあるのに、それを見て怯えたり、特定の誰かを威嚇したりしていないんです」
私がそう告げた瞬間だった。
救護所の裏手で、馬具を直していた作業員が、火鉢から熱した留め具を金鋏で取り出した。ジュッという音と共に、金属が焦げるような匂いと強い熱気が、ふわりと風に乗ってこちらへ流れてきた。
チリィィィンッ!!
その瞬間、リラがこれまでにないほど激しく嘶き、ケージの鉄柵に前肢を叩きつけた。
彼女の鼻腔が大きく膨らみ、瞳孔が開いている。彼女の怒りと恐怖の矛先は、明らかにその『熱気と匂い』の発生源に向けられていた。
「……あれです」
私は確信を持って言った。
「ヴァール様。リラは『色』を見て興奮しているんじゃありません。熱と、焦げたような匂いに反応しているんです」
セドリックは、暴れるリラと、遠くで作業員が持つ熱せられた金具を交互に見つめた。
「だが、私の翻訳は間違っていない。彼女は確かに、幻獣語で『赤い人間』に該当する単語を発音した」
「聞き取った語が同じでも、人間の『赤』と意味が重なるかは、まだ分かりません」
私は彼の言葉を真っ直ぐに受け止めた。
前回の鏡尾狐の事件で、私たちは互いの専門分野を教え合った。彼の翻訳がどれほど緻密で正確なものか、私は彼の逐語メモを見て知っている。彼が『赤』と訳したのなら、リラは間違いなくその単語を使ったのだ。
問題は、辞書の一語だけで、何を伝えたことになるかだった。
「服の色という解釈を、いったん外して調べたいんです」
私は警備隊長に向かって歩き出そうとする近衛兵たちを手で制した。
「お待ちください! 兵士の方々を尋問するのは、少し待っていただけませんか」
「なんだ君は! 素人はすっこんでいろ!」
警備隊長が苛立たしげに怒鳴った。
「幻獣が『赤い人間』と言ったのだ! 我が隊の中に犯人がいるという恥辱、一刻も早く雪がねばならんのだ!」
「彼女は素人ではない。幻獣証言調査室の行動観察担当だ」
私の前に、黒い外套がすっと割り込んだ。
セドリックだった。彼は私を庇うように立ち、冷ややかな視線で警備隊長を射抜いた。
「私は『赤い制服』とは訳していません。今の記録は捜索の手掛かりです。兵の行動確認は必要でしょうが、服の色だけで犯人扱いしないでほしい」
警備隊長はセドリックの圧力に気圧され、言葉に詰まった。
セドリックは私を振り返り、小さく頷いた。
「フェルン飼育官。君の観察に従おう。詳しく説明してくれ」
彼が、私の観察に絶対的な信頼を置いてくれている。
その事実が、私の背中を強く押してくれた。
「ありがとうございます」
私は深く息を吸い込み、周囲の大人たち――警備隊長、獣医官、そして狩猟園の管理者たちに向かって、はっきりと宣言した。
「母鹿のリラが言っている『赤』は、人間の制服の色ではありません。幻獣の感じる『赤』は、人間の色彩概念とは違う可能性があります」
人間と幻獣。見ている世界が違うからこそ、正しい言葉が間違った真実を導き出してしまうことがある。
幼獣ティルを傷つけた、本当の『赤い人間』とは誰なのか。
私たちは、人間の辞書には載っていない、彼らだけの言葉の意味を探し出さなければならなかった。




