第10話 証言ではない声
王国法務院からの警告状が届いた翌日。
王立薬庫での横流し事件は、人間の社会において「正しく」処理された。
治安維持局の捜索により、薬局係が隠し持っていた裏帳簿と、別系統の医薬卸業者の倉庫から王立薬庫の刻印が入った大量の鎮痛薬の大瓶が発見されたのだ。言い逃れのできない物証と人間の記録によって、薬局係と癒着していた業者は共に逮捕された。
この迅速な事件解決の功績により、管理院は幻獣証言調査室の試験運用期間の延長をあっさりと認めた。
だが、私たちが提出した『幻獣の供述と行動鑑定を併記した最終報告書』は、正式な裁判資料としては一切採用されなかった。
「事件の解決に寄与したことは認めよう。だが、幻獣の声を証拠とすることはできない」
それが、法務院と管理院の共通した見解だった。
薬局係の逮捕状を請求するための書類には、鏡尾狐ミーネの証言はただの一文字も記されていなかった。事件の発端はあくまで「内部調査による不審な動きの察知」や「状況証拠」という曖昧な言葉にすり替えられていたのだ。
「……結局、ミーネの声はなかったことにされたんですね」
夕暮れの調査室で、私は机の上の埃を布で拭きながら、ぽつりと呟いた。
アルクがテオを庇ってついた必死の嘘も。ミーネが怪我をした飼育員を思って薬を盗んだ優しい嘘も。
確かにそこに声として存在し、彼らの切実な思いが込められていたのに。人間の法という枠組みの中では、それは正式な供述としては扱われない。
幻獣の発言は、せいぜい捜査の端緒――裏口の鍵が開いていることに気づくための、ただのきっかけに過ぎない。
「聞こえているのに、存在しない。……なんだか、とても悔しいです」
布を握る手に、思わず力が入った。
「今回のように帳簿が見つかればいい。でも、誰も記録を残していなかったら、あの子たちの話は、確かめるところまで進めるんでしょうか」
私が俯いて黙り込むと、向かいの机で書類仕事に没頭していたセドリックが、静かにペンを置いた。
彼は何も言わず、引き出しから分厚い革表紙の冊子を取り出し、私の目の前にことりと置いた。
「……ヴァール様、これは?」
「私の翻訳用語集だ」
促されるままにページを開くと、そこにはあの夜、私たちが互いの専門知識を交換した際の書き込みがあった。
だが、それだけではなかった。
彼自身の緻密な魔力波形の記号の隣に、私の字で書いた「鏡尾狐の尾の巻き方」や「耳の角度による警戒度の違い」が残っていた。耳を大きく描きすぎた狐の絵も、そのままだ。その書き込みを避けるように、彼の几帳面な字で種族ごとの見出しが添えられ、巻末には頁を引くための索引が作られていた。
そして、その項目の最後には、必ず一文が添えられていた。
『――リーゼ・フェルン飼育官の行動鑑定記録に基づく』
私の名前が、宮廷異語局の優秀な翻訳官の個人的な辞書に、はっきりと刻まれていた。
「……どうして、私の名前まで」
「君の観察は、もはや私の翻訳精度を担保するための重要な根拠だからだ」
セドリックは、いつものように淡々とした声で、しかし強い意志を持った瞳で私を見つめた。
「法務院が幻獣の声を証拠と認めないのは、それが『我々二人にしか分からない、再現不可能な現象』だと見なしているからだ。特別な知覚を持つ翻訳官と、勘の良い飼育官の直感。そう思われているうちは、確かに法的な証拠にはなり得ない」
彼は私の手元にある用語集を指差した。
「だから、我々がそれを変える。今は法的に無価値だと切り捨てられても、言葉と行動の法則性を文字にして蓄積し、検証可能な記録として積み上げ続けるんだ。そうすれば、それは個人の特殊能力ではなく、誰でも学び、確認できる『共同知』になる」
「共同知……」
「法務院に否定させない方法は、感情論で訴えることではない。我々の記録の手法を間違いを指摘された時に調べ直せる形へ整え、制度として成立させることだ」
セドリックの言葉は、冷たい理屈のようでいて、ひどく温かかった。
彼は、私の観察を「幻獣に好かれる優しい飼育官の勘」などという曖昧なものにはしておかない。誰でも確認できる技術として、公的な記録として社会に残そうとしてくれている。
慰めの言葉や同情は一つもない。けれど、「私の名前を記録に残す」というその行為こそが、彼なりの最大の誠意であり、信頼の証なのだとわかった。
「……はい」
私は胸の奥に灯った熱を感じながら、顔を上げた。
「いつか必ず、彼らの声が正式な記録として認められる仕組みを作りましょう。そのために、私ももっと観察の精度を上げます」
「頼りにしている」
セドリックの口元がわずかに緩んだ、その時だった。
コンコン、と調査室の扉がノックされ、伝令の青年が飛び込んできた。
「北部の狩猟園で、鈴角鹿の幼獣ティルが傷つけられました。命に別状はありませんが、母鹿のリラがひどく興奮しています」
セドリックは外套を手に取った。
「現場の翻訳官は、何と?」
「軍務で急に呼び戻されたそうです。現場には、母鹿が誰かを訴えているとだけ。詳しい聴取は交代の翻訳官に引き継いでほしいと、この記録が届きました」
青年は先遣の聴取記録を差し出した。
私は手袋を握ったまま、その一行を見た。
『赤い人間が、私の子を傷つけた』




