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小説 空海  八代目の龍 0774-0835  作者: 山田 誠一


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第九章:空海の斧

弘仁七年(816年)から、空海の視線は、都の喧騒を遥かに離れた紀伊国の険しき山岳地帯へと向けられていた。

彼が求めたのは、国家の権力闘争や役人たちの利権争いから完全に隔離された、純粋なる密教修行のための真の道場であった。


「紀伊国の南に、高野という地あり。周りを八つの峰々に囲まれ、その平野はまるで開いた蓮の花の如し」


空海は、山林を独り彷徨っていた若き日に、この山の存在を知っていた。彼は嵯峨天皇に上奏文を提出し、この未開の深山幽谷を下賜されるよう願い出た。天皇は、空海の満濃池での大功やその徳を思い、快くこれを許した。


しかし、山頂は、冬になれば峻烈な酷寒と深い雪に閉ざされる、文字通りの未開の地である。現実の空海が行ったのは、徹底した実務と、緻密な山林の開拓であった。


空海は、自ら斧を執って巨木を伐り、弟子たちを指図して道を開いた。かつて父・田公のもとで見た豪族の統率力、そして長安の青龍寺の壮麗な伽藍がらんの記憶が、この四方を山に囲まれた平野のなかに蘇っていく。


彼は、高野山の地形そのものを、巨大な「曼荼羅」と見立てた。

中央に大塔を建て、それを宇宙の中心である大日如来の座とする。周囲の八つの峰は、胎蔵界曼荼羅の中心にある八葉の蓮華の花弁そのものであった。

「ここに、地上に現れたる密教の宇宙を築く」


空海の執念は、ただ山林を開くことだけに留まらなかった。彼は高野山を維持するための財政的な基盤を整え、各地の有力者から寄進を募り、組織としての持続性を完璧に設計していった。大学寮を嫌って飛び出した青年が、今やひとつの巨大な組織を、自らの手で無から創造していたのである。


その頃、都では、かつての盟友であり、のちに袂を分かった最澄が、比叡山において五十五歳の生涯を閉じていた。

最澄の訃報を聞いたとき、空海は静かに目を閉じ、遥か北の空に向かって手を合わせた。二人は異なる道を歩んだが、この日本の地に「真の仏法」を打ち立てようとした、ただ二人の同志であった。最澄が文字に命を懸けたように、空海はこの高野の土と木の中に、不滅の宇宙を刻み込もうとしていた。


歳月が流れ、空海の肉体にも、過酷な修行と長年の激務による衰えが隠せなくなっていった。彼は背を丸め、時折、激しい身体の痛みに耐えながらも、壇上伽藍に立ち、変わりゆく山の姿を見つめ続けた。


(我が成すべき仕事は、ほぼ終わった。あとは、この肉体をどのように宇宙へと還すかだ)


空海は、自らの命の終わりを完全に予期していた。彼にとって死とは、生命の終わりではなく、永遠なる大宇宙の呼吸のなかに静かに溶け込んでいく過程にすぎなかった。

彼は最後の決戦の場として、自らの原点である「東寺」へと、その不屈の歩みを戻すこととなる。


(最終章に続く)


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