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小説 空海  八代目の龍 0774-0835  作者: 山田 誠一


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第八章:水との再戦

弘仁十二年(821年)、空海の故郷である讃岐国に、未曾有の危機が迫っていた。

この地にある「満濃池」は、国内最大の大貯水池であった。降雨の少ない讃岐の百姓たちにとって、この池の水こそが命のすべてであったが、ひとたび大雨が降れば決壊を繰り返す暴れ池でもあった。


前年の大洪水によって、満濃池の堤防が跡形もなく崩れ去った。朝廷は直ちに役人を派遣し、数千人の民夫を動員して復旧工事に当たらせたが、激しい水の勢いを止めることができず、築いた土手はことごとく押し流された。

「あの池には、人間の力など到底敵わぬ」

工事は行き詰まり、現場には不穏な空気が立ち込めていた。放置すれば、讃岐の地は飢饉に見舞われ、無数の餓死者が出ることは明白であった。


困り果てた国司は、朝廷へ向かって悲痛な上奏文を送った。

「地方の役人の言葉では、民夫たちは動きませぬ。どうか、讃岐の出身であり、今や天下の衆望を集める空海和尚を、総指揮官として遣わしてください。あの御方の一言であれば、民は命を投げ出して働くでしょう」


嵯峨天皇から勅命を受けた空海は、即座に立ち上がった。都の華やかな寺院をあとにし、かつて捨てた故郷の土を踏む。彼が携えていたのは、長安で学び取った、大陸の最新の土木、測量、力学の知識であった。


六月、空海が決壊口に姿を現した。数千人の民夫たちが、地べたにひれ伏した。

「皆の者、よくぞ持ちこたえてくれた。この池は、必ずや我が手で塞いでみせる。私を信じ、もう一度だけ、力を貸してくれ」


その声は驚くほど力強く、絶望の底にあった民の胸を熱く焦がした。

しかし、復旧作業の最中、最悪の事態が一行を襲う。連日の豪雨により、上流から濁流の壁が「津波」となって押し寄せたのである。

「逃げろ! 決壊口が完全にぶち抜かれるぞ!」

数千の民夫が混乱で逃げ惑うなか、空海は濁流が狂い咲く決壊口の最前線へ、ただ一人で突進した。泥濘でいねいを蹴り、巨岩の突き出た土手の際で、濁流を真っ向から見据える。一歩足を踏み外せば、激流に呑み込まれて骨まで砕かれる死の淵。


「ここを踏み止まらねば、讃岐の民に明日はない!」


空海は激怒の如き咆哮を上げ、凄まじい力で巨木の杭を泥の中へ打ち込んだ。その圧倒的な気迫、死を一切恐れぬ苛烈な姿に、逃げかけていた男たちの血が沸騰した。

「和尚を死なせるな! 続けぇ!」

数千人の民夫が泥まみれになって決壊口へ引き返し、空海の指図のもと、狂瀾怒濤きょうらんどとうのなかで命懸けの石組みを敢行した。


空海が行ったのは、単なる精神論ではない。冷徹極まる「科学」の実践であった。

従来の日本の土木技術は、水を「直線」の堤防で無理に堰き止めようとする。これでは、水の圧力が一点に集中し、必ず決壊する。

空海は、指図して堤防の形を「円弧状」に変えさせた。水圧を左右の強固な岩盤へと逃がす、力学構造である。さらに、ただ土を盛るのではなく、大きな石を噛み合わせ、その隙間に緻密な粘土を突き固めさせることで、水の浸透を防ぐ堅牢な構造を採用した。


現場での空海の動きは神速であった。彼は自ら泥を跳ね上げ、岩を運ぶ民夫たちの間に割って入り、声をかけ、汗を流した。

伯父の阿刀大足が教えた儒学の教えにも、最澄が比叡山で深めた天台の論理にも、これほど泥臭く、しかし直接的に民の命を救う術はなかった。空海にとって、この土木作業そのものが、大宇宙の仏と一体になる「密教の修行」そのものであった。


「土手が、水の勢いに勝っているぞ! 和尚の設計は、まことに神懸かりだ!」

工事が始まって、わずか三ヶ月。誰もが「数年はかかる」と諦め、歴代の役人が失敗し続けた満濃池の大堤防が、奇跡の如き速さで完成した。


落成の日、百姓たちは涙を流して万歳を叫んだ。

後世の記録は、この偉業を「秘法を修したことで、神仏が力を貸した」と伝説化して伝える。しかし真実は、空海という一人の男が持っていた、人間の力を信じる熱き情熱と、長安で得た最高峰の技術の融合が成し遂げた勝利であった。


大仕事を終えた空海は、郷里の親族や、かつて己を勘当した父・田公の霊に向かって、静かに手を合わせた。

「我が志は、一世の栄華にあらず。万代の衆生を救うにあり」

あの若き日の誓いは、讃岐の広大な水面となって、今、現実のものとなったのである。


(第九章に続く)

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最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

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