第六章:密教の全てを持ち帰る
一
延暦二十五年(806年)の秋、空海を乗せた遣唐使の帰国船は、再び荒れ狂う東シナ海の怒濤を切り裂き、九州の太宰府へと辿り着いた。
長安での滞在は、わずか二年。二十年という国家との約束を破っての「早期中退」である。法に照らせば、これは国家を欺いた大罪であり、死罪に処されても文句は言えぬ立場であった。そのため、空海は京の都へ入ることを許されず、太宰府の観世音寺に足止めを喰らうこととなる。
しかし、空海の胸中に恐れの色は微塵もなかった。
彼は太宰府の冷たい部屋のなかで、静かに筆を執った。朝廷へ提出するための報告書、世にいう『御請来目録』を草するためである。
この目録は、単なる言い訳の書ではない。彼が唐から命懸けで持ち帰った、目も眩むような至宝の数々を列記した、国家への大いなる進物帳であった。
大日経をはじめとする未伝の経典、二百四十一部、計四百六十一巻。金剛界・胎蔵界の巨大な両部曼荼羅。インドの高僧から授かった、おどろおどろしくも美しい数々の法具。
二
空海は、その目録のなかに自らの罪を謝しつつも、「私が持ち帰ったこの教えこそ、これからの我が国を、そして天皇の治世を永久に護る唯一無二の絶対知である」という、凄まじいまでの確信を込めた。
この目録が朝廷に届けられたとき、貴族たちは言葉を失った。当時、すでに帰国していたあの天才・最澄すら、これほど完璧な密教の体系は持ち帰っていなかったからである。最澄は、短期の留学であったため、密教の一部をかじるに留まっていた。
「空海という男、一体何者だ。長安の密教の正統を、すべてその身に宿して帰ってきたというのか」
最澄自身もまた、この目録を見て驚愕した。最澄は、真理に対してどこまでも誠実な男であった。彼は、自らの地位や名声を投げ打ち、太宰府にいる空海に対して、謙虚極まる書状を送った。
「どうか、あなたが持ち帰った経典を貸してください。そして、私に密教の深淵を教えてください」
日本仏教界の最高峰にいた男が、罪人同然の扱いを受けている年下の男に向かって、頭を下げたのである。
三
大同四年(809年)、平城天皇の譲位により、嵯峨天皇が即位した。この新帝の即位が、空海の運命を劇的に変えることとなる。
嵯峨天皇は、当代随一の文化人であり、とりわけ書道を深く愛する「書の天才」であった。空海が唐から持ち帰った格調高い文章、そして王羲之をも凌ぐといわれたその変幻自在な筆跡に、天皇は一瞬で魅了された。
「これほどの天才を、太宰府の田舎に埋もれさせておく国難があろうか」
ついに朝廷から許可が下りた。空海が太宰府の土を離れ、都へと入る道が開かれたのである。罪人の影は完全に消え去り、彼は「世界の最高知性をその頭脳に秘めた男」として、堂々と京の舞台へと迎え入れられることとなった。
四国の山林を独りで彷徨い、室戸の洞窟で明星を飲み込み、長安の最高権威を震撼させた男が、ついに日本の国家の中心へと、その歩みを進めたのである。
(第七章に続く)
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