第四章:第十六次の遣唐使船
一
延暦二十三年(804年)五月。肥前国松浦郡の田の浦の港には、四隻の巨大な木造船が波に揺れていた。
第十六次遣唐使船である。
その第一船の乗船名簿の片隅に、ひとりの無名なる僧の名が滑り込んでいた。
「留学僧・空海」
真魚は、この大航海に臨むにあたり、公式に得度して「空海」という名を得ていた。大学を中退した前科があり、私度僧であった男が、なぜ国家の最高エリートたる二十年の留学僧に選ばれたのか。
ここには、母方の阿刀氏や父・田公の属する佐伯氏が、死に物狂いの裏工作によって動いた地脈の力があった。
このときの船団には、もうひとり、のちの日本仏教界を二分することになる巨星が乗っていた。すでに桓武天皇の絶大な信任を得ていた、天台宗の開祖・最澄である。
最澄は最高位の「還学生」として第二船に乗り、空海は一介の無名なる「留学僧」として第一船に乗った。二人の地位には、雲泥の差があった。
七月、船団は南風を受けて東シナ海へと漕ぎ出した。
二
航海から十日後、狂える大宇宙の怒りがそのまま具現化したかのような、未曾有の大暴風雨が船団を急襲した!
天は漆黒に塗り潰され、稲妻が生き物の如くのたうって海面を切り裂く。
「帆柱を切り落とせ! 船が覆るぞ!」
水夫たちの絶叫は一瞬で暴風に掻き消された。山脈と見紛うほどの超巨浪が牙を剥き、大音響と共に木造の船体を粉砕せんと打ち付ける。
第二船、第三船は、巨大な水の顎に噛み砕かれるようにして瞬時に闇の深淵へ呑み込まれ、一人の生存者も残さず消滅した。
空海の乗る第一船もまた、一瞬で天空へと引きずり上げられたかと思えば、次の瞬間には奈落の底へと垂直に叩きつけられる。船体は限界の悲鳴を上げ、凄まじい浸水が役人たちの膝を没した。
船内は、血と吐瀉物と泥にまみれた完全なる阿鼻叫喚の地獄絵図であった。凄絶な揺れによって壁に激突し、骨を砕かれた男たちが肉塊となって転がり、神仏の名を叫んで狂い泣く。死の恐怖に精神を破壊された者が、髪を振り乱して荒海へ飛び込んでいった。
この世のすべてが崩壊していく、その絶望の極限にあって――空海ひとり、凄まじいまでの輝きを放ちながら、泰然自若として座していた。
彼がただそこに座しているだけで、狂乱する嵐のただ中に、絶対的な真空の聖域が削り出された。その神々しくも圧倒的な佇まいは、絶望の淵で死を待つ乗組員たちにとって、暗闇を爆砕する唯一無二の救いの巨光に見えた。
三十日以上におよぶ、この世のものとは思えぬ壮絶な漂流の末、第一船は奇跡を体現して大陸の土を踏んだ。
しかし、辿り着いたのは目的地からはるか南に外れた、福州長渓県赤岸鎮という辺境の海岸であった。
三
「曲者である! 海賊の類か、あるいは間諜か! 証拠なき者に長安への通行など断じて許可できぬ!」
重武装した唐の防人たちが一斉に槍を突き出し、生還したばかりのぼろぼろの異国人たちを包囲した。一行は野獣のように船内に軟禁され、一歩でも動けば即座に斬首される緊迫した状況に置かれた。
大使の藤原葛野麻呂は激しい焦燥のなか、必死に嘆願書を書き連ねたが、その文章は地方官の冷徹な心を一ミリも動かせず、ただ虚しく数週間が過ぎていく。食糧は完全に底を突き、使節団全員が餓死と処刑の二択を迫られる、全滅の危機が最高潮に達した。
「もはやこれまでか……」
大使が絶望に崩れ落ちたその時、背後の闇を裂いて、空海が静かに、しかし地響きのような威厳を纏って進み出た。
「大使、不肖ながら、この空海が代わりに書状を認め、唐の度肝を抜いてご覧に入れましょう」
空海は不敵に微笑むと、筆を極限まで鋭く執った。
白紙に向かうその刹那、彼の全身から凄まじい気が立ち昇る。
一筆、入魂。
叩きつけられる筆先は、まるで龍が天を駆け、稲妻が走るかの如き猛烈な勢いを見せた。それでいて描かれる線は、大書家・王羲之が全盛期の姿で降臨したかのように流麗であり、完璧なる美を構築していく。
さらに彼が紡ぎ出した漢文は、華麗なる四六駢儷体を完璧に駆使し、中華の文人さえも平伏させる格調と、天をも動かす気迫に満ち満ちていた。
その書状が、福州の最高権力者である観察使(長官)のもとへと届けられた。
書状を開いた瞬間、長官は雷に打たれたかのように総毛立ち、その場に立ち上がった。
「な、なんだこれは……! これほどの文章、これほどの筆跡を残せる者が、海賊や間諜のわけがない。これは本物の、いや、それ以上の国家の至宝たる使節団だ!」
長官の態度は激変し、即座に平伏せんばかりの勢いで入国が認められた。そればかりか、皇帝の待つ長安への最高待遇での旅路が最優先で許可されたのである。
絶体絶命の死地を、ただ「一本の筆」と「圧倒的な知性」だけで大爆破し、歴史の扉を力任せにこじ開けた、空海の恐るべき大勝利の瞬間であった。
(第五章に続く)
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