第三十一話 物語と真実の間で——アレックス・ヘイリー
(ピアノの前に座った老いた黒人ミュージシャン。薄暗い照明。グラスを傾ける客たち。彼は鍵盤に指を置き、物語を紡ぐような、ゆったりとしたフレーズを弾く。だが、その旋律には、一音だけ、微妙にずれた音が混じっている。)
こんばんは、みんな。俺だ。
今夜は、物語を語る男の話をしよう。
いや——。
もう少し正確に言おうか。
今夜は、「物語」と「真実」の間を歩いた男の話だ。
(彼は少し笑う。)
『ルーツ』。
知ってるだろう。アフリカから奴隷として連れてこられたクンタ・キンテから始まり、何世代にもわたる黒人家族の歴史を描いた、あの本だ。
あの物語を読んで、自分の祖先を探し始めた人間がいた。自分の家族にも、名前があった。故郷があった。歴史があった。そう考え始めた人間が、何百万人もいた。
だが——。その本自身の「ルーツ」を辿っていくと、話は少し複雑になる。
(彼の顔を上げる。)
アレックス・ヘイリー。
(ピアノ。海を思わせる、ゆっくりとした旋律。)
1921年8月11日、ニューヨーク州イサカ生まれ。十代で沿岸警備隊に入り、それから二十年間、軍務についた。船の上で文章を書き始めた。
(彼の声に、その海の上の日々が込められる。)
仲間のラブレターを書いてやった。記事を書いた。物語を書いた。そして退役すると、本格的に作家として生き始めた。
やがて彼は、一人の男と出会う。
(彼は間を置く。その名前を、特別な重みで。)
マルコムX。
(ピアノ。一音だけ、鋭くなる。)
二人の関係は、最初から良好だったわけじゃない。
ヘイリーは1950年代末からネーション・オブ・イスラムに関心を持ち、やがてマルコムへの取材を重ねるようになった。だが、マルコムは彼を警戒した。
ある時には、ヘイリーにこう言ったという。
「あなたを信用しているのは、二十五パーセントくらいだ」
(客席から、小さな笑い。彼も少し笑う。)
まあ、正直な男だ。
(ピアノ。少し軽くなる。)
それでも、二人は話し続けた。ヘイリーはマルコムに、教義ではなく、あなた自身のことを話してくれ、と求めた。だがマルコムは、なかなか自分を語らない。
(彼の声に、その行き詰まりが込められる。)
何を聞いても、返ってくるのはネーション・オブ・イスラムの教えだった。イライジャ・ムハンマドの言葉だった。自分の人生を聞かれているのに、いつの間にか演説になってしまう。
ヘイリーは困った。
(ピアノ。小さな、いたずらっぽいフレーズ。)
そこで彼は、あることに気づいた。マルコムには、話しながら紙ナプキンに文字や絵を書きつける癖があった。ヘイリーは、それを会話の糸口に使い始めた。
そしてある夜、話を教団からマルコム自身へ向けた。母親のことを尋ねた。どんな人だったのか。
(ピアノが静かになる。)
すると、マルコムが語り始めた。
父親のこと。母親のこと。幼い頃のこと。家族が壊れていったこと。少年時代。街。犯罪。刑務所。そして、自分がマルコムXになるまでのこと。
(彼は間を置く。その夜の重みを。)
教義を語っていた男が、初めて、自分自身の記憶を語り始めた。その記憶が、やがて一冊の本になっていく。
『マルコムX自伝』。
(ピアノ。慎重な和音。)
だが、この本には奇妙な問題がある。読んでいると、マルコム本人が目の前に座って、自分の人生を語っているように感じる。だが、もちろん、本を書いた手は一人のものではない。
(彼の声に、その共同作業の複雑さが込められる。)
マルコムが語った。ヘイリーが聞いた。そして膨大な言葉を選び、並べ、削り、つなぎ、一冊の物語へ組み上げた。
マルコムは条件を出していた。自分が言っていないことを載せるな。自分が載せたいことを勝手に削るな。原稿を確認する権利も持っていた。
だから、これは単純な「ゴーストライターの作品」じゃない。マルコムの言葉だ。だが同時に——ヘイリーが形を与えた言葉でもある。
(彼は少し間を置く。)
声は、マルコムのものだった。だが、その声が読者の耳にどう届くかを整えたのは、ヘイリーだった。
面白いだろう。どこまでが「本人」で、どこからが「作家」なんだろうな。
(ピアノ。低く沈む。)
1965年2月21日。ニューヨーク、オーデュボン・ボールルーム。マルコムXは暗殺された。三十九歳だった。本の完成を見ることはなかった。
その年、『マルコムX自伝』が出版された。そしてヘイリーは、マルコムとの日々を、自分自身の言葉でエピローグに残した。
(彼の声が、静かに、しかし確かに。)
取材相手だった男は、もういない。だが、声は本の中に残った。
(ピアノ。少しずつ旋律が変わる。)
そしてヘイリーは、今度は自分自身の過去へ向かった。自分は、どこから来たのか。父は。祖父は。そのまた祖父は。
家族の記憶を遡り、記録を調べ、海を渡り、アフリカへ向かった。そして彼は、ガンビアの村で、一つの名前に辿り着いたと語った。
(彼はその名前を、ゆっくりと。)
クンタ・キンテ。
十八世紀、アフリカから捕らえられ、奴隷船でアメリカへ送られた男。ヘイリーは、その男こそ自分の祖先だと考えた。そこから、一冊の巨大な物語を書いた。
(ピアノ。大きく広がる。)
1976年。『ルーツ』。
翌年、テレビ・ミニシリーズが放送された。アメリカ中が見た。黒人も。白人も。自分たちの国の歴史を、家族の物語として見た。
(彼の声に、その衝撃の大きさが込められる。)
奴隷には名前があった。家族があった。愛した人がいた。奪われた故郷があった。それまで数字として語られることの多かった奴隷制が、一人ひとりの人間の顔を持って、家庭のテレビ画面に現れた。
『ルーツ』は社会現象になった。ヘイリーには、ピュリツァー賞特別賞が贈られた。そして多くの人々が、自分自身の祖先を探し始めた。
(ピアノ。だが——。最初から混じっていた、あの一音が戻ってくる。)
問題が起きた。
研究者や系譜学者がヘイリーの系譜を検証すると、クンタ・キンテからヘイリー家へ至る道筋には、記録との矛盾や、裏付けることのできない部分があると指摘された。
(彼の声に、その指摘の重みが込められる。)
口承と公文書が一致しない。年代が合わない。本当に、このクンタ・キンテが、ヘイリーの祖先だったのか。確実な証明はできなかった。
そして、もう一つ。もっと厄介な問題が起きた。
(ピアノが止まる。)
作家ハロルド・カーランダー。彼はヘイリーを訴えた。自分の小説『The African』の文章や場面が、『ルーツ』に使われている、と。
裁判になった。多数の類似箇所が問題になった。そして最終的に、両者は和解した。ヘイリー側は、『The African』の素材が『ルーツ』に入り込んだことを認めた。
(彼の声は、裁くのではなく、事実を並べる。)
ヘイリーは、調査の過程で集められた出典不明の資料の中に、カーランダー作品から取られた文章が混入した可能性を説明した。
だが——理由が何であれ、他人の作品の言葉が『ルーツ』の中に入っていたという問題は残った。
(長い沈黙。)
さらに、ヘイリー自身、『ルーツ』について、ある言葉を使った。
「ファクション」。
ファクト。そして、フィクション。事実と創作。その間にある物語。
(彼は客席を見渡す。)
さて。ここからが難しい。だから今夜、この男の話をしている。
もし『ルーツ』の系譜に誤りがあったなら、この本には価値がないのか。もし創作が混じっていたなら、奴隷制を描いたあの物語まで嘘になるのか。もしマルコムXの言葉をヘイリーが編集したなら、『マルコムX自伝』の声はマルコム本人の声ではないのか。
(ピアノ。一音ずつ、問いを置いていく。)
そんなに簡単じゃない。
『マルコムX自伝』では、ヘイリーは一人の男の声を聞いた。その男の言葉を残すために、自分自身をできるだけ後ろへ退かせた。話したのはマルコムだった。だが、その声を一冊の本として後世へ届けたのは、ヘイリーだった。
『ルーツ』では、逆だった。今度は、自分の家族の失われた声を取り戻そうとした。だが、過去へ遡れば遡るほど、記録は消えていく。
(彼の声が、少し低くなる。)
奴隷として売られた人間たちは、自分で自分の歴史を書き残せなかった。名前を変えられた。家族を引き離された。読み書きを禁じられた者もいた。記録に残ったとしても、そこに書かれているのは、人間としての人生ではなく——売買された財産としての記録だった。
その沈黙を埋めようとして、ヘイリーは物語を書いた。そして——埋めてはいけない場所まで、物語で埋めてしまったのかもしれない。
(長い沈黙。)
そこなんだ。今夜の話は。
(ピアノ。最初の旋律が戻ってくる。一音だけ、まだずれている。)
「あなたにとって、アレックス・ヘイリーとは何ですか?」
(彼は、すぐには答えない。しばらくの間、鍵盤の上に手を置いたまま。)
俺なら、こう言う。
彼は、二つの巨大な物語を残した。
一つでは、他人の声を消さないために、自分の声を隠した。
もう一つでは、自分の家族の失われた声を取り戻そうとして、事実と物語の境界まで越えてしまった。
どちらも、世界を変えた。そして、どちらも俺たちに同じ問いを残した。
(彼は客席を見る。)
物語は、どこまで真実でなければならない?
(沈黙。)
俺には、答えられない。
作り話で埋めていい歴史なんてない。他人の文章を、自分のものにしていい理由もない。
だが同時に——記録に残っていないからといって、そこに人生がなかったことにはならない。記録に名前がないからといって、その人間が存在しなかったことにもならない。
(彼の声が、静かに、しかし確かに。)
歴史には、証明できる真実がある。そして、証明できなくても、確かに誰かが生きていたという真実もある。
その二つを混同しちゃいけない。だが、その二つの間に立って、声を失った人間をどう語るのか。それが、物語を書く人間に残された仕事なのかもしれない。
(ピアノ。ずれていた一音を、彼はもう一度弾く。今度は直さない。)
アレックス・ヘイリーのために。
1921年8月11日 - 1992年2月10日。
彼は、失われた声を探した。
いくつもの声を、後世へ残した。
そして俺たちに、厄介な問いまで残していった。
(拍手。深く、長い拍手。彼は軽く会釈する。その目は、マルコムXが紙ナプキンに何かを書きつけている夜を見ている。あるいは、遠いアフリカの村で、一つの名前を聞いた日を。)
クンタ・キンテ。
それは歴史だったのか。記憶だったのか。物語だったのか。
(彼は目を閉じ、次の曲へと指を動かす。)
旋律の中には、あの一音が、まだ残っている。
誰も、それを直さない。




