第三十二話 ジャングルの檻の中で——デューク・エリントン
(ピアノの前に座った老いた黒人ミュージシャン。薄暗い照明。グラスを傾ける客たち。彼は鍵盤に指を置き、優雅なスウィングを弾き始める。低い金管楽器を思わせる、不思議な響きが混じっている。)
こんばんは、みんな。俺だ。
今夜は、同業者の話をしよう。
ピアノを弾く男だ。もっとも、俺なんかとは桁が違う。
(彼は小さく笑う。)
彼はピアノ一台じゃ満足しなかった。トランペットも、トロンボーンも、サックスも、バンドの人間を丸ごと楽器にしてしまった。そして、世界中を踊らせた。
デューク・エリントン。
(ピアノ。1927年、ニューヨーク、ハーレム。スウィングのリズムが、クラブの喧騒のように広がる。)
1927年。ハーレムのコットン・クラブ。
あの店を知ってるかい。黒人の音楽家が演奏し、黒人のダンサーが踊る。だが、客席は白人のためのものだった。
(彼の声に、その矛盾への静かな怒りが込められる。)
黒人は舞台の上には立てても、客として自由に席に着くことはできなかった。奇妙な話だろう。黒人の音楽を聴くために、黒人を客席から締め出していたんだ。
(彼は少し笑う。しかし、その笑いには苦味がある。)
もっとも、当時のアメリカでは、そんな奇妙なことが、奇妙とも思われていなかった。
1927年の暮れ、エリントンの楽団は、この店の専属バンドになった。彼らが演奏したのは、いわゆる「ジャングル・スタイル」。
(ピアノ。金管楽器のうなりを模した、低い和音。)
うなるトランペット。動物の声を思わせるミュート奏法。野性的で、官能的で、どこか異国めいた音。白人客が黒人文化に求めた幻想が、そこにはあった。
だがな、みんな。エリントンは単に、その幻想に従ったわけじゃない。
(彼の声が、少し強くなる。)
彼には、ババー・マイリーという、とんでもないトランペット奏者がいた。ミュートを使って、人間の声とも獣の声ともつかない音を出す。エリントンは、その音を面白がった。そして、ほかの楽器と組み合わせた。
普通なら濁って聞こえる響きを、美しい和音に変えた。一人ひとりの奏者の癖まで、曲の一部にした。
白人客は、ジャングルの幻想を聴いているつもりだった。だが、その舞台では、誰も聴いたことのない新しい音楽が生まれていた。
(彼は、鍵盤を軽く叩く。スウィングのリズム。)
1927年、エリントンとマイリーは『Black and Tan Fantasy』を録音した。ブラック・アンド・タン。黒と褐色。その言葉は、黒人と白人がともに集う娯楽の場を指すこともあった。人種の境界を越える響きを持った名前だ。
だが、曲名だけで、彼が人種統合の宣言をしたと決めつけることはできない。エリントンは、演説家じゃなかった。少なくとも、この頃の彼は、音で勝負していた。
(ピアノ。軽快なスウィング。ラジオの電波が広がるように。)
コットン・クラブの演奏はラジオで放送された。彼の音楽は、店の壁を越えた。客席には入れなかった黒人たちの家にも、電波は届いた。
エリントンはスターになった。
だがな、スターになったからといって、アメリカの人種差別が消えたわけじゃない。
(彼の声が、静かに、しかし確かに。)
黒人の楽団が全国を旅すれば、宿泊できるホテルも、食事のできる店も限られた。舞台では喝采を浴びても、舞台を降りれば、差別が待っていた。
エリントンは、そういう国で音楽を作っていた。
(ピアノ。旋律がゆっくりと変わる。都会的な、少し複雑な和音。)
そして、1938年。彼の人生に、もう一人の作曲家が現れる。
ビリー・ストレイホーン。
まだ二十代の若者だった。ピアノを弾き、曲を書き、編曲もできた。エリントンは、その才能に驚いた。翌年から、二人は本格的に仕事を始める。エリントンは彼を「スイート・ピー」と呼んだ。
(彼は少し微笑む。)
ストレイホーンは、エリントンとは違う男だった。物静かで、繊細で、洗練されていた。そして、同性愛者であることを隠して生きようとはしなかった。
(彼の声に、その二重の重みが込められる。)
当時のアメリカで、それは簡単なことじゃない。黒人であること。同性愛者であること。二重の偏見の中で、彼は自分の音楽を書いた。
『Take the “A” Train』。「A列車で行こう」。
知ってるだろう。エリントン楽団のテーマ曲だ。
(彼は、その曲のイントロを、ピアノで軽く弾く。)
だが、あれを書いたのはストレイホーンだった。ニューヨークの地下鉄A線に乗れば、ハーレムへ行ける。その道案内から生まれた曲が、世界中で演奏されるジャズの名曲になった。
エリントンの楽団が演奏する。観客はエリントンの音楽だと思う。だが、作曲者はストレイホーン。
(彼は少し間を置く。スウィングが止まる。)
さて。ここから話が難しくなる。
二人は、長い年月をともに仕事をした。エリントンが曲の着想を出す。ストレイホーンが編曲する。ストレイホーンが書いた旋律を、エリントンが楽団の音に仕上げる。
時には、それぞれが独立して曲を書いた。時には、どこからが誰の仕事なのか、簡単には分けられない作品も生まれた。そして、その音楽は「デューク・エリントン楽団」の名前で世界へ出ていった。
(ピアノ。少し陰る。低い和音。)
問題は、そこだった。
楽団の名前は、エリントン。世間が覚える名前も、エリントン。批評家が語る天才も、エリントン。だが、その音楽の中には、ストレイホーンが書いたものが数多くあった。
作曲や編曲の貢献が、十分に知られなかった作品もあった。著作権やクレジットをめぐる問題も、後に議論されることになる。
もっともな、みんな。ストレイホーンが無給で働かされていたわけじゃない。彼は報酬を受け取り、音楽出版事業にも関わっていた。二人の関係を、単純な搾取の物語にしてしまうのは正確じゃない。
だが、名声が平等に分けられていたとも言い難い。
(彼は、客席の誰かを見つめる。)
あんたが曲を書いたとする。それを誰かが演奏する。世界中で大ヒットする。だが、人々が覚えるのは、その誰かの名前ばかり。
(彼は間を置く。)
さて。あんたなら、どう思う?
(ピアノ。しばらく沈黙。誰も答えない。答えられない。)
それでも、二人は仕事を続けた。衝突もあった。距離を置いた時期もあった。だが、音楽は二人を結びつけていた。
エリントンは、ストレイホーンの才能を必要としていた。ストレイホーンもまた、エリントンの楽団という、世界でも類を見ない楽器を使って、自分の音楽を鳴らすことができた。
二人の関係は、友情でもあり、仕事でもあり、芸術上の協力でもあった。そして、そこには名声と権力の不均衡もあった。
(彼の声が、静かに、深く。)
人間の関係ってのは、そんなにきれいに割り切れない。
(ピアノ。1943年、カーネギー・ホール。荘重な和音。)
話を少し戻そう。
1943年。エリントンは、ニューヨークのカーネギー・ホールで、一つの大作を初演した。
『Black, Brown and Beige』。ブラック、ブラウン、ベージュ。黒、褐色、そして淡い褐色。
アフリカ系アメリカ人の歴史を、音楽で描こうとした組曲だった。奴隷制。労働。信仰。そして、黒人たちが生きてきたアメリカ。彼は、それをジャズ・オーケストラで語ろうとした。
(彼の声が、その意味の大きさを伝える。)
考えてみてくれ。かつてコットン・クラブで、白人客のために「ジャングル」を演奏していた男が、今度は、黒人自身の歴史を、自分の音楽で語ろうとしている。しかも、カーネギー・ホールで。
そこには、白人の客を楽しませるためだけの幻想ではない、別の世界があった。エリントンは、黒人の音楽を、黒人の歴史を、アメリカの芸術として堂々と鳴らしたかったんだろう。
(彼は、少し間を置く。)
もっとも、批評家たちが全員それを歓迎したわけじゃない。「ジャズはジャズらしく、短く、軽快に演奏していればいい」。そんな見方もあった。
だが、エリントンは、その枠に収まるつもりはなかった。
(ピアノ。時は流れる。少し、ユーモラスなフレーズ。)
1965年。今度は、ピュリツァー賞をめぐって騒動が起きた。
音楽部門の審査員たちは、エリントンの長年の功績を特別に顕彰することを推薦した。だが、賞を決める理事会は、その推薦を採用しなかった。その年、音楽部門の受賞者は出なかった。
(彼は小さく笑う。)
エリントンは、落胆を露骨には見せなかった。そして、こんな皮肉を口にした。
「運命は俺に親切だ。若いうちに有名になりすぎないよう、守ってくれているんだろう」
(客席から笑いが起きる。)
六十六歳の男が、そう言ったんだ。
(彼も少し笑う。)
公爵らしいだろう。
だがな、その冗談の裏には、アメリカの音楽界がジャズをどう扱ってきたのか、という問題があった。黒人の音楽は、娯楽としては歓迎される。だが、芸術としての権威を与えられる時には、別の物差しが持ち出される。
エリントンの仕事は、そうした境界を何度も揺さぶってきた。
(ピアノ。静かになる。低い、哀しみを帯びた和音。)
1967年。ビリー・ストレイホーンが亡くなった。五十一歳だった。食道癌だった。
エリントンは、長年の相棒を失った。二人が出会ってから、三十年近くが経っていた。
(長い沈黙。ピアノの音も止まっている。)
その後、エリントンは一枚のアルバムを作った。
『…And His Mother Called Him Bill』。「そして、彼の母親は彼をビルと呼んだ」。
ストレイホーンへの追悼アルバムだった。彼の書いた曲を演奏した。彼の音楽を、楽団の仲間たちともう一度鳴らした。
(ピアノ。ゆっくりとした、優しい旋律。)
そこには、『Blood Count』という曲もあった。ストレイホーンが晩年に書いた作品だ。静かで、痛ましく、美しい曲だった。
エリントンは、相棒が残した音を弾いた。
もう、隣に本人はいない。新しい曲を持ってくることもない。編曲の相談をすることもない。いつもそこにいた男が、いなくなった。
(彼は、鍵盤に置いた指を見つめる。)
音楽家にとって、それがどういうことか。俺には、少し分かる気がする。
一緒に音を作ってきた相手を失う。すると、楽譜は残っているのに、音楽の一部が失われるんだ。音符は同じでも、もう同じ音にはならない。
(ピアノ。しばらく沈黙。その沈黙が、音楽のように響く。)
(ピアノ。最初のスウィングが戻ってくる。しかし、少しだけ、影を帯びて。)
エリントンは、その後も演奏を続けた。
1974年5月24日。七十五歳で亡くなった。
生涯にわたって膨大な作品を残した。ジャズを変えた。オーケストラの響きを変えた。アメリカ音楽の歴史を変えた。
だがな、みんな。その巨大な仕事は、彼一人の手で生まれたわけじゃなかった。
(彼は、一人ひとりの名前を、敬意を込めて挙げる。)
ババー・マイリー。ジョニー・ホッジス。クーティ・ウィリアムズ。ハリー・カーネイ。そして、ビリー・ストレイホーン。
エリントンは、彼らの音を聴いた。その個性を生かした。彼らにしか出せない音を、作品の中に組み込んだ。
だから、エリントンの音楽は、エリントンだけの音楽ではなかった。
(彼は客席を見渡す。一人ひとりに語りかけるように。)
サー・デュークは、檻の中で音楽を作り始めた男だった。
白人客が求めた、ジャングルの幻想。黒人の演奏家は舞台に立てても、黒人の客は座れないクラブ。その矛盾の中から、彼は誰も聴いたことのない音を作った。
そして、やがて自分たちの歴史を、堂々と音楽で語るようになった。
だが——彼の自由は、彼一人の才能で生まれたものじゃなかった。楽団の仲間たちがいた。彼らの技術があった。彼らの人生があった。そして、ストレイホーンがいた。
(彼の声が、静かに、しかし確かに。)
天才ってのは、便利な言葉だ。一人の名前を覚えれば済む。だが、その名前の後ろに、何人の人間がいたのか。何人が音を作ったのか。誰が拍手を浴び、誰の名前が忘れられたのか。
そこまで聴いて初めて、一つの音楽が見えてくることもある。
(彼は、鍵盤に指を置く。最後のコードのために。)
エリントンは、ストレイホーンの才能を認めていた。ストレイホーンもまた、エリントンとともに音楽を作った。
そこには友情があった。信頼があった。そして、簡単には消せない不均衡もあった。その全部が、二人の音楽の中に残っている。
(ピアノ。ゆっくりと最後の和音へ。)
俺たちは、自由な音楽を聴く。だが、その音楽を作った人間たちが、みんな同じだけ自由だったとは限らない。
それでも、彼らは音を重ねた。違う人生を持つ人間たちが、一つの曲を作った。そこに、ジャズの面白さがある。そして、難しさもある。
(長い沈黙。)
デューク・エリントンのために。
1899年4月29日 - 1974年5月24日。
彼は、檻の中から自由な音楽を生み出した。
そして、その音楽は、一人の名前では語り尽くせない。
(拍手。深く、長い拍手。彼は軽く会釈する。その目は、1927年のコットン・クラブを見ている。白人客のために演奏する黒人たち。舞台の上で、トランペットがうなる。ピアノが応える。やがて、その光景に、もう一人の若者の姿が重なる。)
ビリー・ストレイホーン。
二人は、同じ楽譜を見ている。
(ピアノ。最後のコード。スウィングのリズムが、静かに消えていく。しかし、その余韻は、まだこの部屋の中に残っている。彼は、鍵盤から手を離す。しばらくの間、誰も拍手をしなかった。ただ、その音楽の余韻を、みんなで共有していた。そして、ゆっくりと、拍手が始まる。)




