第二十六話 闘わなかった男——ジョージ・ワシントン・カーヴァー
第二十六話 闘わなかった男——ジョージ・ワシントン・カーヴァー
(ピアノの前に座った老いた黒人ミュージシャン。薄暗い照明。グラスを傾ける客たち。彼は鍵盤に指を置き、素朴で、どこか牧歌的なフレーズを奏でる。土と畑の匂いがするような音。)
こんばんは、みんな。俺だ。
今夜は、ピーナッツの話——だと思うだろう。
(彼は少し笑う。)
学校で習うのは、だいたいこういう話だ。ピーナッツバターを発明した黒人科学者。ピーナッツの使い道を何百も考えた天才。
だが、その話には、事実と神話が一緒くたになっている。
ジョージ・ワシントン・カーヴァー。
(ピアノ。南北戦争末期、ミズーリ州。奴隷制の下で生まれた赤ん坊。)
彼が生まれた年は、正確には分かっていない。南北戦争が終わるころ、ミズーリ州で奴隷として生まれた。
母メアリーと兄のジムも、モーゼス・カーヴァーの農園で奴隷にされていた。父は、彼が生まれる前に事故で亡くなったと伝えられている。
幼いころ、ジョージは母とともに誘拐された。奴隷商人たちは、母子を売ろうとした。モーゼスは捜しに出て、連れ戻せたのは、病気になっていたジョージだけだった。母の行方は分からず、ジョージは二度と母に会えなかった。
(彼は、鍵盤から指を離す。)
生まれてすぐに、母と引き離された子どもだった。
帰ってきた後、ジョージは百日咳を患い、体が弱かったという。重い農作業を担うことは難しかった。そのかわり、家の庭や森を歩き、植物を観察した。
近所の人々は、植物の病気を見てもらおうと、彼のもとを訪ねた。いつしか彼は「農園の医師」と呼ばれるようになった。
(彼は間を置く。)
奴隷制が廃止された後も、モーゼスと妻のスーザンは、ジョージを育てた。二人は彼の好奇心を止めず、学びたいという願いを支えた。
ジョージは少年のころ、学校へ通うために農園を離れた。家を出た年齢や道のりについては、後年の回想と伝記で細部が異なる。確かなのは、黒人の子どもが学べる場所を求め、町から町へ移らなければならなかったことだ。
彼は家事をして部屋を借り、働きながら学校へ通った。ある家で、後に彼は「カーヴァーのジョージ」と名乗ったと回想している。家主の女性が「ジョージ・カーヴァーね」と聞き返した。その後、彼は「ジョージ・カーヴァー」という名を使うようになった。
「ワシントン」は、生まれた時からのミドルネームではない。大学時代、同じ名前の学生と区別するために、彼が「W」を加えたとされる。彼は自分の名さえ、自分で選び直していった。
(ピアノ。1890年、アイオワ州。)
彼は1890年、シンプソン大学に入学した。最初に学んだのは農学ではなく、絵画と音楽だった。植物を描く彼の作品を見た教師エッタ・バッドが、植物への知識を生かせる農学を勧めた。
翌年、彼はアイオワ州立農科大学へ移る。1894年に学士号を取り、1896年には修士号を取得した。同校で学位を得た最初の黒人学生だった。
奴隷から大学へ、一足飛びに進んだわけじゃない。学ぶ場所を探し、働き、名前を選び、扉をひとつずつ開けていった。
(ピアノ。1896年。一通の手紙が届く。差出人は、タスキーギ学院の創設者ブッカー・T・ワシントン。)
修士号を得た年、ワシントンから手紙が届いた。
「金も、地位も、名声も、あなたに与えることはできない。今の地位にいれば、それらはいずれ手に入るだろう。私が求めるのは、それを手放すことだ」
ワシントンは、カーヴァーにタスキーギで教えてほしいと頼んだ。提示された給料は年千ドルと食事などの待遇。カーヴァーは招きを受け入れ、1896年にタスキーギへ移った。
(彼は少し間を置く。)
彼はそこで、残りの人生の大半を過ごすことになる。
タスキーギでの仕事は、研究室にこもることだけではなかった。南部の農地では、綿花を作り続けた土が痩せ、農民たちは貧困に苦しんでいた。
カーヴァーは、ピーナッツ、サツマイモ、ササゲなどを綿花と交互に育てる輪作を勧めた。土を回復させ、農民が綿花以外の作物からも収入や食料を得られるようにするためだった。
彼は農業の知識を、大学の外へ運んだ。農民に向けた講習や資料を通じて、土の扱い方や作物の育て方を伝えた。彼が変えようとしたのは、研究室の中だけじゃない。農民が自分の畑で食べていけるかどうかだった。
(ピアノ。タスキーギの教室。書類の束と、土のついた靴。)
ブッカー・T・ワシントンとの関係は、単純な師弟の美談ではない。
ワシントンは学校全体を動かす責任を負い、報告や運営を求めた。カーヴァーは研究と教育に没頭し、限られた設備や事務仕事に不満を抱くこともあった。二人のあいだには摩擦があった。それでも、ワシントンは彼を招き、カーヴァーはタスキーギに残った。
1915年、ワシントンが亡くなった。カーヴァーはその後も教え、研究し、農民たちに働きかけた。彼の名声は広がっていくが、それを「上司の重しが取れたから」と片づけることはできない。長い年月をかけた仕事が、少しずつ外へ知られていったのだ。
(ピアノ。新聞の紙面に、ピーナッツの絵と「300」の数字。)
カーヴァーは、ピーナッツの用途を何百も紹介した。だが、ひとつひとつが彼の新発明だったわけではない。彼自身が開発したものもあれば、すでに知られていた使い方や、他の人の知識をまとめたものもあった。
ピーナッツバターも、彼の発明ではない。彼がした仕事の大きさは、ひとつの食品を発明したことにあるんじゃない。作物の価値を広げ、農業の知識を人々の暮らしにつなげたことにある。
(彼の声に、少し皮肉が混じる。)
けれど、世間は複雑な仕事より、覚えやすい話を好む。
「黒人の天才が、ピーナッツから三百の発明をした」
その話は、土を回復させるための研究も、農民に届けた教育も、見えにくくしてしまう。
彼の名声は、確かなものだった。ヘンリー・フォードとは交流があり、植物を使った素材について意見を交わした。ガンディーの側近から、食生活について助言を求められたこともある。TIME誌は1941年、彼を「Black Leonardo」と題した記事で紹介した。
だが、名声が広がると、本人の仕事とは別に、彼のイメージも作られていく。
静かで、温厚で、誰とも争わず、白人社会にも受け入れられる黒人の成功者。
(彼はそこで、言葉を切る。)
その型に彼が自分から入ったのか。周囲が彼をそこへ押し込めたのか。どちらか一方だけでは語れない。
カーヴァーは、公の場で人種差別を告発する活動家ではなかった。デュボイスのように、権利を正面から要求する演説を重ねた人物でもない。彼は農業教育と、黒人農民が自らの土地で暮らしを立てる道に力を注いだ。
その仕事は、人々の暮らしを支えた。一方で、彼の成功だけを取り上げれば、「努力すれば誰でも成功できる」と、差別の仕組みを見ないための物語にもなり得た。
その矛盾は、カーヴァーひとりの責任ではない。称賛する側が、彼のどの部分を見て、どの部分を見ないことにしたのか。その問いも残る。
(ピアノ。1921年、議会の証言台。)
1921年、カーヴァーは下院の関税委員会で、ピーナッツの用途や農業上の価値について証言した。彼は資料や製品を示しながら説明し、証言は長時間に及んだ。
黒人の専門家が、議会で意見を聞かれる機会は限られていた。そこに立った彼の知識は、議員たちの関心を引いた。
彼はただ、誰かに認められるのを待っていたわけじゃない。自分の研究を人々の前に持ち込み、農民や農業をめぐる議論に参加した。
(ピアノ。1943年。タスキーギの墓地。)
1943年1月5日、カーヴァーはこの世を去った。墓碑には、彼が名声や富を求めることもできたが、世界の役に立つことに幸福と名誉を見いだした、という言葉が刻まれている。
美しい言葉だ。
けれど、静かな生き方は、いつも本人が自由に選んだものとは限らない。声を上げることの危険、限られた場所で仕事を続けるための判断、誰かの暮らしを支える日々——そのどれが彼を形づくったのか、今となっては、ひとつに決められない。
(ピアノ。最後のコード。牧歌的な旋律が、少しだけ不協和音に崩れる。)
俺は、彼を臆病者だとは思わない。
彼は、土と植物を愛し、農民の暮らしを豊かにしようとした。その仕事は、確かに人々の畑に届いた。
一方で、彼の名は、彼の仕事より単純な神話に包まれていった。称賛の言葉は、時に彼の声を大きくする。時に、その人が何を考え、何を選び、何を語らなかったのかを、見えなくもする。
(彼は客席を見渡す。)
闘うってのは、ひとつの形だけじゃない。議場で声を上げる人もいる。畑で土を変え、次の世代へ知識を渡す人もいる。
それでも、俺たちは尋ねていい。
彼の静けさは、彼自身の選択だったのか。それとも、時代が彼に求めた姿だったのか。
(ピアノ。優しく消える。)
ジョージ・ワシントン・カーヴァーのために。
1864年ごろ—1943年1月5日。
彼は土を見つめた。
その手は、誰かの畑を支えた。
そして彼の名を語るとき、俺たちは何を見て、何を見落としているのだろう。
(拍手。ブルーは軽く会釈する。その目は、タスキーギの実験室を見ている。狭い部屋で、土を手に取る男。彼が何を考えていたのか、誰にもすべては分からない。ブルーは少し首を振り、次の曲へ指を動かす。土の匂いのする、静かな旋律を。)




