第二十四話 歌と行動の架け橋——ハリー・ベラフォンテ
(ピアノの前に座った老いた黒人ミュージシャン。薄暗い照明。グラスを傾ける客たち。ブルーは鍵盤に指を置き、カリプソのリズムを軽やかに奏でる。陽気で、思わず踊りたくなるような音だ。)
こんばんは、みんな。俺だ。
今夜は、笑顔の裏に刃を隠した男の話をしよう。
「Day-O」——知ってるかい?
誰もが知ってる、あの陽気な歌だ。歌が流れると、自然に手を叩きたくなる。踊りたくもなる。
だが、あの笑顔だけを見て、この男をわかったつもりになったら、きっと後で驚く。
ハリー・ベラフォンテ。
(ピアノ。1927年、ハーレム。)
1927年3月1日、ハリーはニューヨークのハーレムに生まれた。母はジャマイカから来た移民だった。
母は、幼い息子にカリプソを聴かせた。島のリズム。港の歌。遠くから持ち込まれた音が、ハーレムの部屋に流れていた。
母が彼に何を教えたのか、ひとつの言葉にまとめることはできない。
ただ、ハリーは生涯、黒人であることを恥じずに生きた。誰かに認められるために、自分を小さくすることもしなかった。
(ピアノ。戦時中の海軍。帰還した若者。)
第二次世界大戦中、彼は海軍に従軍した。
戦争から戻ったハリーは、俳優を志す。ハーレムのアメリカン・ネグロ・シアターに通い、演技を学んだ。そこで、のちに長い友情を結ぶシドニー・ポワチエとも出会う。
演技の勉強を続けるため、彼はクラブでも歌った。
1949年、レコード契約を結ぶ。歌は、彼の生活を支える仕事であり、自分の声を世の中へ届ける手段にもなっていった。
(ピアノ。ブロードウェイの舞台。)
1953年、ハリーはブロードウェイの舞台『John Murray Anderson’s Almanac』に立つ。
翌年、彼はその舞台でトニー賞を受賞した。黒人の俳優や歌手が大きな舞台に立つ機会が限られていた時代に、これはひとつの扉を押し開く出来事だった。
(ピアノ。レコード盤が回り始める。)
1956年、アルバム『Calypso』が発売される。そこには、やがて世界中に知られることになる「バナナ・ボート・ソング」も収められていた。
「Day-O」。
港で働く人々が、夜を徹してバナナを船へ運ぶ。夜明けが来たら、仕事を終えて帰りたい——歌は、そんな労働者たちの時間を刻む歌だった。
カリプソの陽気なリズムは、重い荷を軽くはしない。けれど、その歌には働く人々の暮らしがあり、声があった。
アルバム『Calypso』は大きな成功を収め、アメリカの人々にカリプソを広く知らしめた。
ベラフォンテは、歌の明るさを隠れ蓑にはしなかった。楽しませることと、考えさせること。その両方を、同じ歌の中に置いた。
(ピアノ。賞のトロフィーが並ぶ。)
1954年、トニー賞。1960年にはテレビ番組『Tonight with Belafonte』でエミー賞を受賞した。黒人の受賞者として初めてだった。
彼はグラミー賞も受け、生涯功労賞を贈られた。ケネディ・センター名誉賞、国民芸術勲章。そして2014年には、映画界の人道活動をたたえるジーン・ハーショルト賞を受けている。
けれど、この男を賞の数だけで語ったら、やっぱり肝心なところを見落とす。
(ピアノ。不穏なコード。1950年代のハリウッド。)
1950年代、アメリカを赤狩りの嵐が覆った。政治的な発言をする人々は監視され、疑われ、仕事を失うことがあった。
ベラフォンテの名も、ブラックリストの影響を受けた。彼は、黒人として公に意見を述べることの代償を知っていた。
それでも、口を閉じなかった。
(ピアノ。1963年、バーミングハム。)
1963年、アラバマ州バーミングハム。人種差別に抗議した人々が逮捕され、キング牧師も投獄された。
ベラフォンテは、支援者を集めた。ニューヨークの自宅で会合を開き、逮捕された人々を保釈するための資金を募った。集まった金は、運動を支える人々のもとへ届けられた。
彼は、キング牧師の親しい協力者だった。資金を集め、政治家や活動家、芸能人たちの間をつないだ。
世代も、考え方も違う人々と向き合った。マルコムXやストークリー・カーマイケルのような、異なる立場の指導者たちとも接点を持った。
誰もが同じ意見だったわけじゃない。それでも、彼は対話を続けた。運動の現場に必要なものを探し、必要な人へ届けようとした。
(ピアノ。ベラフォンテの年齢を重ねた顔。)
この男の刃は、年を取っても鈍らなかった。
2002年、ベラフォンテはブッシュ政権の国務長官コリン・パウエルを厳しく批判した。奴隷制時代の「屋敷奴隷」にたとえ、政権に従う姿勢を問うたんだ。
その言葉は大きな反発を招いた。パウエル自身も、その比喩を「不幸な表現だ」と批判した。
ベラフォンテは、後にコンドリーザ・ライスにも同じ歴史的比喩を用いて批判を広げた。ライスも、自分が黒人であることを誰かに教えられる必要はないと反論した。
物議を醸した。当然だ。
だが、ベラフォンテは退かなかった。自分の言葉が誰を傷つけるのか、どんな反発を招くのかを知らなかったわけじゃない。それでも、言うべきだと考えたことを口にした。
(ピアノ。2006年、ベネズエラ。)
2006年、ベラフォンテはベネズエラを訪れ、ウゴ・チャベス大統領と会った。
そこで彼は、アメリカのブッシュ大統領を激しく批判した。
「世界で最大の暴君、最大のテロリストは——ジョージ・W・ブッシュだ」
その発言は、大西洋を越えて反響を呼んだ。彼を共産主義者と呼ぶ声も、また上がった。
若い頃から、ベラフォンテには政治的な疑いがつきまとっていた。
だが、彼自身の言葉は少し違う。
彼は自分を共産主義者ではないと述べた。一方で、マルクスの思想から深く学んだことも語っている。
思想に影響を受けることと、ひとつの党派や国家に従うことは同じじゃない。彼が大切にしたのは、誰かの前で頭を下げずに生きられること。人種や貧しさを理由に、声を奪われないことだった。
(ピアノ。最後のコード。「バナナ・ボート・ソング」のリズムを、少し崩して荒く弾く。)
歌う男は、たくさんいる。
だが、歌いながら牙を隠さない男は、そう多くない。
彼の笑顔は、仮面じゃなかった。あれは、武器の持ち方だった。
ベラフォンテは、味方さえ居心地悪くさせることがあった。政府に嫌われ、仲間からも批判された。
それでいい、と彼は思っていたのかもしれない。
拍手されるために、声を上げたんじゃない。
(彼は客席を見渡す。)
俺たちは、都合よく「いい人」を覚えたがる。角を丸めて、誰も傷つかない話にしたがる。
だが、ベラフォンテは丸くなかった。
歌と行動。そのあいだに橋をかけた男だった。
(ピアノ。優しく消える。)
ハリー・ベラフォンテのために。
1927年3月1日—2023年4月25日。
彼は歌った。
そして、退かなかった。
誰にも、飼いならされなかった。
(拍手。ブルーは軽く会釈する。その目には、パウエルやライスを批判した日のベラフォンテが浮かんでいる。あるいは、カラカスの壇上でブッシュを「テロリスト」と呼んだ日の姿かもしれない。
ブルーは少し笑い、次の曲へ指を動かす。
今度は——荒く崩したカリプソを。)




