第二十一話 最も白い場所で最も黒く——セリーナ・ウィリアムズ
(薄暗い店内の空気。客たちの静かな視線。老ミュージシャンは鍵盤に指を置く。)
ひとつの、高く澄んだ音。
乾いた、鋭い音だ。
ラケットの芯が、ボールを打ち抜いた瞬間のような。
「今夜は——白い世界に入っていって、その景色そのものを塗り替えてしまった女の話をしよう」
(低く、深く、ピアノが鳴り始める。)
かつて、テニスは圧倒的に「白」の世界だった。
白いウェア。白いライン。芝の静寂。会員制クラブの品格。
そこにいる人間も、コートを取り囲む客も、みんな白人だった。
もちろん、その扉を叩いた先人がいなかったわけじゃない。
アリシア・ギブソンがいた。アーサー・アッシュがいた。
彼らは鉄の扉に最初の亀裂を入れた。
そして、その亀裂から——恐ろしいほどの風を連れてやってきたのが、二人の姉妹だ。
ヴィーナス。
そして、セリーナ・ウィリアムズ。
1981年、セリーナは生まれた。
暮らしたのは、カリフォルニアのコンプトン。
スカウトが金の卵を探しに来るような街じゃない。
ひび割れたアスファルトの公営コート。網の破れたネット。
遠くで響く銃声をバックに、父親は手作りの理論で娘たちにラケットを握らせた。
無謀だと思うだろ?
ストリートの真ん中から、世界最高峰のテニス界を制覇するなんて。
だが、親父は本気だった。
そして——娘たちは、それ以上の怪物だった。
二人はボールを打ち続けた。
誰も見ていないコートで。血が滲むほど。何千回、何万回と。
(ピアノのテンポが急激に跳ね上がる。)
1995年、プロデビュー。セリーナ、14歳。
速い。強い。重い。
そして何より——サーブが狂っていた。
ボールが跳ね上がる。しなる身体。振り下ろされるラケット。
バン。
それだけで、空間が切り裂かれる。女子テニスの歴史に一度も存在しなかった圧力が、コートを支配した。
1999年、全米オープン。17歳のセリーナは、並み居る女王たちをなぎ倒し、全米の頂点に立った。
黒人女性として、実に41年ぶりのグランドスラム制覇。
41年だ。
17歳の黒人少女が、ニュー・ヨークのセンターコートでトロフィーを抱きしめた。
コンプトンのコートで銃声を聴いていた少女がだ。
だが、本当の闘いはそこからだった。
(ピアノがピタリと止まる。)
勝つだけじゃ、奴らは認めなかった。
コートに立つたび、彼女は「見られた」。
強い腕、豊かな尻、編み込んだ髪、そしてコートで吐き出す激しい怒り。
「大きすぎる」
「強すぎる」
「攻撃的すぎる」
聞こえのいいスポーツ批評の裏に、黒人女性に対する偏見が透けていた。
「女はこうあれ」「黒人は大人しくしていろ」「テニスらしく振る舞え」。
世間が作った小さな枠に、彼女は収まる気がさらさらなかった。
枠からはみ出したんじゃない。
その枠が、彼女に対して小さすぎたんだ。
彼女は体を小さく見せなかった。声を殺さなかった。愛想笑いも拒んだ。
圧倒的なパワーのまま、白人の歴史を叩きのめし続けた。
2002年から2003年。
全仏、ウィンブルドン、全米、全豪。
四大大会をすべて連続で制覇。人呼んで「セリーナ・スラム」。
そのすべての決勝のコートで、ネットの向こうに立っていたのは——実の姉、ヴィーナスだった。
コンプトンの公営コートで背中を追いかけた姉を打ち破り、妹は世界の頂点に君臨した。
(重く、力強い低音。)
波乱もあった。フットフォールトを巡る審判への猛抗議、激越な感情の爆発。
男がやれば「闘志」と呼ばれ、彼女がやれば「品がない」と叩かれた二重基準。
度重なる怪我、血栓症での死の淵、愛する家族の喪失。
誰もが「セリーナは終わった」と囁いた。
だが、彼女はそのたびに地獄から這い上がってきた。
復帰し、打ち砕き、また勝った。
2017年、全豪オープン。
35歳になったセリーナは、23回目のグランドスラムに手をかけた。
決勝の相手は、またしても姉のヴィーナス。
セリーナは勝利した。オープン化以降、史上最多の23勝。
驚くのはそこじゃない。
彼女はその時、お腹に新しい命を宿していたんだ。
妊娠初期の身体で、世界の頂点を奪い取ってみせた。
(静かな、優しい音色。)
母となった後も、彼女はコートに戻った。
ボロボロの体を抱え、何度もグランドスラムの決勝へ立った。
24個目のタイトルには、届かなかった。
だがな、届かなかったその1個にこそ、彼女の泥臭い生き様が詰まっていた。
四大大会シングルス23勝。ダブルス14勝。金メダル4個。通算319週の世界1位。
数字なんて飾りだ。
本当に凄まじいのは——
彼女が現れたことで、世界中の黒人の子供たちが「自分もあの場所に立っていいんだ」と思えるようになったことだ。
編み込んだ髪を揺らし、肌の色を誇り、筋肉を躍動させて、センターコートで叫ぶ。
彼女は先人が開けた扉を、後ろから来る子供たちのために、二度と閉じないほど叩き壊して広げたんだ。
「最も白い場所で、最も黒く輝いた」
いや、違うな。
彼女は白い世界で輝いたんじゃない。
テニスという世界の色そのものを、自分の色に変えてしまったんだ。
(老ミュージシャンは、ゆっくりと鍵盤から手を離す。)
セリーナ・ジャメカ・ウィリアムズ。
彼女はテニスを変えた。
いや——「そこに誰がいていいのか」という、世界の答えを変えたのさ。
(最後の、鋭いコードが響く。)
サーブが決まった瞬間のような、乾いた音。
そして音はゆっくりと夜の中に溶けていく。
客席からの拍手は、最初はぽつりぽつりと、やがて地鳴りのような嵐になった。
老人は静かに顔を上げ、次の曲へ指を動かす。
少し重く、少し跳ねるリズム。
ブルースと、ヒップホップが混ざり合う音。
その世界の色を変えてしまった、一人の女のために。




