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ブルー・ワシントンの夜の弾き語り  作者: はまゆう


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第二十話 コートを超えて——レブロン・ジェームズ

(ピアノの前に座った老いた黒人ミュージシャン。薄暗い照明。グラスを傾ける客たち。彼は鍵盤に指を置き、低く唸るようなコードをひとつ鳴らす。


それは、バスケットボールがコートに弾む音。

あるいは、何万人もの観客が息をのむ音。

それとも——誰かが、黙ってはいられないと決めた瞬間の音。)


こんばんは、みんな。俺だ。


今夜は、コートの外でも勝負を続けた男の話をしよう。


(彼は客席を見渡す。若い顔。年を重ねた顔。たぶん、この場にいる誰よりも、その名を知っている男の話だ。)


「黙ってドリブルだけしていろ」


(老人は、ゆっくりと首を振る。)


そう言われた男がいた。


だが彼は、黙らなかった。


(顔を上げる。)


レブロン・ジェームズ。


(ピアノ。低いリズム。錆びた工場の街を思わせる、重いコード。)


一九八四年十二月三十日。

オハイオ州アクロン。


レブロン・レイモン・ジェームズは、その街に生まれた。


母グロリアは、十六歳だった。

父親は、彼の人生にほとんどいなかった。


(老人の声が少し低くなる。)


母と子の暮らしは、安定していなかった。


住まいを転々とした。

仕事は長く続かなかった。

学校へ行けない日もあった。


子供が安心して眠るためには、毎晩、同じ屋根が必要だ。

だが、彼にはそれがなかった。


(短い間。)


九歳のころ、レブロンは少年フットボールのコーチ、フランク・ウォーカーの家で暮らすことになった。


ウォーカーは、彼にフットボールを教えた。

そして、バスケットボールも教えた。


ボールを手にした少年は、走った。

投げた。

跳んだ。


(ピアノ。少し軽く、速くなる。)


フットボールは、彼の最初の愛だった。


高校に入ってからも、彼は有望なワイドレシーバーだった。

だが、バスケットボールを手にしたとき、彼の体は別の言葉を話し始めた。


コートが、彼の言葉になった。


(ピアノ。アクロンの体育館。若い観客の足音。)


彼は、アクロンのセント・ヴィンセント=セント・メアリー高校へ進んだ。


仲間たちと州王者になった。

何度も、何度も。


高校生の試合に、テレビカメラが来た。

雑誌が来た。

大学の関係者が来た。

NBAの関係者まで、客席に座った。


まだ十代の少年に、アメリカは名前をつけた。


「選ばれし者」


(老人は、少し苦く笑う。)


だが、選ばれることは、楽なことじゃない。


期待は、ときに拍手の形をした重荷になる。


どこへ行っても見られる。

失敗すれば笑われる。

勝てば、もっと勝てと言われる。


普通の少年なら、仲間と遊んで終わる午後。

レブロンには、未来を値踏みする大人たちがいた。


それでも彼は、逃げなかった。


(ピアノ。二〇〇三年。低音がはっきりと鳴る。)


二〇〇三年六月二十六日。

NBAドラフト。


十八歳のレブロン・ジェームズは、全体一位でクリーブランド・キャバリアーズに指名された。


故郷のすぐそばのチームだった。


少年が夢見た場所へ、少年自身が帰ってきた。


(老人の声に、少し誇らしさが混じる。)


彼は新人王になった。


だが、一人の才能だけでチームは完成しない。


キャバリアーズは、彼が来た最初の年に大きく勝率を伸ばした。

それでも、優勝には届かなかった。


彼は、勝ちたかった。


自分のためだけじゃない。

アクロンの少年が見上げた街に、優勝の旗を立てたかった。


(ピアノ。二〇一〇年。リズムが張りつめる。)


だが二〇一〇年七月八日。

彼は、全米中継の番組『ザ・ディシジョン』で決断を告げた。


マイアミ・ヒートへ行く。


(グラスを持つ客たちの手が止まる。)


クリーブランドの人々は傷ついた。


裏切り者と呼ばれた。

ジャージは燃やされた。

彼の顔は、街じゅうの怒りを引き受ける顔になった。


あの発表のやり方を、彼は後にもっと違う形にできたかもしれないと認めている。


だが、選手が自分の働く場所を選ぶことまで、誰かに許可されなければならないのか。


(老人が鍵盤を一音、強く叩く。)


白人選手なら「キャリアの選択」と呼ばれることがある。


黒人選手が選べば、「恩知らず」と呼ばれることがある。


レブロンは、その怒りのなかでマイアミへ行った。


(ピアノ。熱を帯びた、早いリズム。)


マイアミで彼は、ドウェイン・ウェイド、クリス・ボッシュとともに戦った。


最初の年、彼らはNBAファイナルで敗れた。


だが、翌年。

二〇一二年、初めてNBAチャンピオンになった。


二〇一三年、連覇した。


批判は消えなかった。

だが、彼は批判に人生を決めさせなかった。


(間。)


二〇一四年。

彼は、クリーブランドへ戻る。


記者会見でも、華やかな特番でもなかった。


故郷へ帰る、と文章で伝えた。


彼に必要だったのは、拍手ではなかった。

果たしていない約束が、そこにあった。


(ピアノ。ゆっくりと高まる。)


二〇一六年六月十九日。

NBAファイナル第七戦。


キャバリアーズは、ゴールデンステート・ウォリアーズを破った。


三勝一敗まで追い詰められてからの逆転。


NBAファイナル史上、初めてのことだった。


そして、キャバリアーズにとって初めての優勝だった。


クリーブランドにとって、五十二年ぶりの主要プロスポーツ優勝だった。


(老人の声が震える。)


試合が終わったあと、レブロンは床に崩れ落ち、泣いた。


そして叫んだ。


「クリーブランド! これはお前たちのためだ!」


あれは、優勝の歓声だけじゃない。


母と住まいを探した少年の叫び。

故郷を去って、憎まれ、戻ってきた男の叫び。

夢を見てもいいのだと、アクロンの子供たちに伝える叫びだった。


(ピアノ。だが、音はそこで終わらない。)


レブロンは、コートの中だけで満足しなかった。


トレイボン・マーティンが殺されたあと、レブロンとマイアミ・ヒートの仲間たちは、フードをかぶった写真を公表した。


一人の黒人少年が、フードを着ていたというだけで怪しまれ、殺された。


その事実を、忘れさせないために。


(老人は客席を見る。)


彼は、コリン・キャパニックの抗議にも敬意を示した。


警察暴力、人種的不正義、投票する権利。


多くの有名人が、面倒を避けて黙ることを選ぶ問題について、彼は口を開いた。


そのたびに言われた。


アスリートなら、政治を語るな。

黙ってドリブルだけしていろ、と。


(老人の指が鍵盤に触れる。)


だが彼は、拒んだ。


自分は、スポーツ選手である前に人間だ。

黒人の父親であり、黒人の市民だ。


そういう立場から、この国を見ている。


(ピアノ。少しやさしい旋律。)


二〇一八年。

レブロン・ジェームズ・ファミリー財団とアクロン公立学区の協力によって、I PROMISE Schoolが開校した。


それは、レブロン一人が建てた私立学校ではない。


公立学校と、故郷の人々と、彼の財団が力を合わせてつくった場所だ。


家庭の事情や、生活の不安定さのために、学校からこぼれ落ちそうになっている子供たちを支える場所。


食事。

通学のための自転車。

家族への相談や就労支援。

子供だけでなく、その家族ごと支えようとする仕組み。


(老人の声が静かになる。)


レブロンは、自分が子供のころ、学校を休みがちだったことを忘れていない。


家が安定しないとき、子供の未来も揺れることを知っている。


だから彼は、故郷に建物だけを残したのではない。


「ここにいていい」と言える場所を残そうとした。


(ピアノ。二〇一八年のあとも、リズムは続く。)


彼はロサンゼルス・レイカーズでも優勝した。


二〇二三年には、NBA歴代最多得点記録を更新した。


だが、数字だけでは、彼の物語は語れない。


(老人は、ゆっくりと息を吸う。)


二〇二四年。

レブロンは、息子ブロニーと同じNBAのコートに立った。


NBA史上初の、父と息子による同時出場だった。


自分の父をほとんど知らずに育った男が。


今度は、自分の息子の隣に立った。


(長い沈黙。)


記録よりも、あの瞬間の方が、彼には大きかったかもしれない。


失われたものを、そのまま取り戻すことはできない。


だが、人は自分の子供に、別の時間を渡すことができる。


(ピアノ。問いかけるようなコード。)


「あなたにとって、レブロン・ジェームズとは何ですか?」


(老人は、自分の胸に手を当てる。)


彼は、バスケットボール選手だ。


歴代最高の選手の一人だ。


だが、それだけではない。


自分の名声を、故郷の子供たちのために使うことを選んだ男だ。

黙らされてきた人々の側で、声を上げることを選んだ男だ。


(客席を見渡す。)


彼は教えた。


アスリートは、黙っている必要はない。


コートは、ただ勝ち負けを決める場所じゃない。

そこから見える世界について、語るための場所にもなり得る。


(ピアノ。最後のコード。低く、強く、そして温かい。)


レブロン・レイモン・ジェームズのために。

一九八四年十二月三十日生まれ。


彼は、コートを超えた。

ただ、それだけだった。


誰にも、止められなかった。


(拍手。深く、長い拍手。


老人は軽く会釈する。その目は、二〇一六年のコートを見ている。


歓声。

涙。

金色の紙吹雪。


そして、遠いアクロンの教室。

子供たちが机に向かっている。


そのどこかで、またボールが弾む。


しばらくの間——長い間、老人は何も言わない。


やがて彼は、次の曲へと指を動かす。


今度は——彼のために。


コートを超えた男の、ブルースを。)


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