第十二話 最も隔絶された黒人——ジェームズ・メレディス
(ピアノの前に座った老いた黒人ミュージシャン。薄暗い照明。グラスを傾ける客たち。彼は鍵盤に指を置き、低く、緊張感のあるコードを奏でる。それは何かが始まろうとしている予感——歩兵の足音か、それとも一人の男の靴音か。そして、語り始める。)
こんばんは、みんな。俺だ。
今夜は、最も隔絶された黒人の話をしよう。
(彼はその言葉を繰り返す。自分自身にも問いかけるように。)
「最も隔絶された黒人」。誰がそんな言葉を自分に冠するだろうか?誰がそれを誇りに思うだろうか?
(彼の声に、敬意と驚きが混ざる。)
ジェームズ・メレディス。彼は自分自身をそう呼んだ。そして、その言葉には、彼の人生のすべてが凝縮されている。
(ピアノ。1933年、ミシシッピの農場。静かな朝。)
彼は、1933年6月25日、ミシシッピ州コジウスコで生まれた。祖父は奴隷だった。でも、彼の父は、自分自身で84エーカーの農場を所有していた。
(彼の声に、そのことの驚異が込められる。)
覚えておいてほしい。1930年代のミシシッピで、黒人が自分の土地を持つことは奇跡に近かった。彼の父は、自分の敷地を柵で囲み、家族の外部との接触を最小限に抑えた。
(彼は間を置く。その意味を噛みしめるように。)
メレディスは後に語っている。「私は、誰にも従うように育てられなかった。誰の主人でもなかった」と。それが、彼を後に動かす原動力になった。
(ピアノ。15歳の列車の中。差別の痛み。)
彼が初めて「黒人であることの意味」を思い知らされたのは、15歳のときだった。
北の親戚を訪ねた帰り、ミシシッピに戻る列車の中で、車掌が彼と兄に言った。「お前たちは、あの車両に移れ」
(彼の声が苦くなる。)
デトロイトを出たとき、列車は差別されていなかった。でも、メンフィスに着くと——そこで「ルール」が変わった。彼は言った。「私はその日からずっと泣いている。ある意味では、今もまだ泣き続けている」と。
(長い沈黙。その言葉の重みが広がる。)
その日から、彼は戦うことを決意した。誰にも、自分の居場所を決めさせないと。
(ピアノ。空軍のジャズ。自由の風。)
高校卒業後、彼は空軍に入隊した。9年間務めた。空軍は、当時の軍の中で最も人種差別の伝統が薄かった。彼は日本にも駐屯した。
(彼の声に、その経験の重要性が込められる。)
日本では、彼は「肌の色」で判断されることがなかった。その経験が、彼に教えた。差別は「自然なこと」ではない。変えられるものだと。
彼は1960年に除隊した。そして、故郷ミシシッピに戻った。
(彼は小さく笑う。)
ほとんどの黒人が北へ逃げた時代に、彼は戻った。南へ。最も危険な場所へ。彼は知っていた。そこで戦わなければ、本当の勝利はないと。
(ピアノ。ジャクソン州立大学のキャンパス。秘密の集会。)
彼は、ジャクソン州立大学——全黒人の大学——に入学した。そこで彼は、小さな秘密結社を作った。「ミシシッピ改善学生協会」。MIAS。
(彼の声に、革命のささやきが込められる。)
彼らは、反白人至上主義のビラを作り、教室の黒板にこう書いた。「MIAS対BIAS——お前はどちらを支持する?」と。
でも、彼はもっと大きな目標を持っていた。
(彼の声が強くなる。)
「ミシシッピ大学に入る」。オールド・ミス(※1)。当時、114年の歴史を持つこの大学は、まだ一人の黒人も入学させていなかった。
(ピアノ。ケネディ大統領の声。就任演説のトランペット。)
1961年1月20日。ジョン・F・ケネディが大統領に就任した。その就任演説で、彼は言った。「国民よ、あなたの国があなたのために何をしてくれるかを問うのではなく、あなたがあなたの国のために何ができるかを問うてほしい」
(彼の声に、その言葉の力を込めて。)
メレディスはその演説を聴いた。そして、決断した。「私は行動に移す。今こそ、その時だ」
翌日、彼はミシシッピ大学に申請書を請求した。
(彼はそこで止まる。その決断の重みを、客席と共有するように。)
彼は後に語っている。「私は、自分が選ばれたわけではない。自分で決めたんだ。私は神聖な責任を負っている」と。
(ピアノ。法廷の重苦しい空気。タイプライターの音。)
彼の申請は、すぐに却下された。二度、三度。理由は明らかだった——肌の色だ。彼は、NAACPの法律防衛基金の助けを借りて、訴訟を起こした。
(彼の声に、その闘いの長さが込められる。)
彼の弁護士、メドガー・エヴァースが撃たれることになる、あのメドガー・エヴァースだった。まだ彼が生きていた頃だ。メレディスは彼に支えられ、助言された。
訴訟は、連邦地方裁判所、控訴院、そして最高裁へと進んだ。
(彼の声が高まる。)
1962年9月10日。アメリカ合衆国最高裁は、ミシシッピ大学にメレディスの入学を認める判決を下した。
(長い沈黙。その判決の重み。)
でも、それは終わりではなかった。始まりだった。
(ピアノ。緊張の高まり。軍靴の足音。)
ミシシッピ州知事、ロス・バーネットは言った。「私が知事を務めている限り、ミシシッピの学校が統合されることはない」
(彼の声に、その言葉への軽い嘲笑が混ざる。)
州議会は、即座に新しい法律を通過させた。「背徳の罪を犯した者」の入学を禁じる法律。それはメレディスを標的にしたものだった。彼は「偽りの有権者登録」の罪で起訴されたのだ。
(彼の声が強くなる。)
連邦政府は動いた。控訴院はバーネット知事を民事侮辱とし、彼が協力しない限り、1日1万ドルの罰金を科すと命じた。
そして——ケネディ大統領は、連邦軍を動員する準備を始めた。
(ピアノ。1962年9月30日の夜。地獄の音。)
1962年9月30日。夕方。
メレディスは、連邦保安官の護衛の下、ひそかにオックスフォードのキャンパスに到着した。彼は寮に運び込まれ、守られた。
(彼の声が緊張を帯びる。)
でも、その知らせはすぐに広まった。キャンパスには、白人の群衆が集まり始めた。最初は数百人。やがて、二千人以上になった。
午後10時。ケネディ大統領がテレビで演説を始めた。「ミシシッピの人々に、連邦法に従うよう訴える」と。
(彼の声が暗くなる。)
その演説が流れている間、キャンパスでは——悪夢が始まっていた。
群衆は、連邦保安官のトラックに火炎瓶を投げつけた。彼らはレンガ、瓶、そして銃で保安官を襲った。
(彼はそこで止まる。その夜の暴力を、自分の言葉で伝えきれないことを知っている。)
その戦いは、8時間以上続いた。
2人が死亡した——フランスの新聞記者ポール・ギハールと、地元の見物人レイ・ガンター。166人の連邦保安官が負傷した。48人の兵士が負傷した。約200人が逮捕された。
(長い沈黙。その犠牲の大きさが、空気を満たす。)
これは、南北戦争以来、連邦政府と南部の間で起こった最初の「武力衝突」だった。
(ピアノ。午前4時。静けさの中の一人の男。)
翌日。1962年10月1日。午前8時。
(彼の声に、その時間の持つ象徴的な重みが込められる。)
連邦軍がキャンパスを掌握した後、メレディスは登録のために歩いた。彼の周りには、連邦保安官と軍隊がいた。彼は、彼の歩く道を守るために集まった、約31,000人の国家警備隊と連邦軍の兵士たちに囲まれていた。
彼は、登録事務所の前に立った。登録官が彼に書類の束を手渡した。
(彼の声が静かに、しかし確かに。)
その瞬間、ジェームズ・メレディスは、ミシシッピ大学の最初の黒人学生になった。
(ピアノ。一つのコード。勝利ではなく、静かな決意の音。)
彼はその後、記者に言った。「これは、嬉しい瞬間ではない」と。
(ピアノ。寮の部屋。孤独のブルース。)
彼の学生生活は、決して楽ではなかった。
(彼の声が痛みを帯びる。)
彼は、24時間体制の護衛を必要とした。彼が教室に行くときも、食堂に行くときも、トイレに行くときも——保安官と兵士たちが彼を守った。
学生たちは、彼を排斥した。彼が寮の部屋にいると、上の階の学生たちは、何時間もバスケットボールを床でドリブルし続けた。
(彼は間を置く。その音を想像するように。)
彼が食堂に入ると、そこに座っていた学生たちは、一斉に背を向けた。彼が同じテーブルに座ると、全員が立ち上がって別のテーブルに移った。
学生たちは、彼を嘲るポスターを作った。市民協議会と協力して、「反抗的な抵抗」というビラを配布した。
(彼の声に、その言葉を伝える苦さ。)
「あなたは、メレディスと一切の交わりを持つことを避けなければならない」
彼は後に語っている。「私は、アメリカで最も隔絶された黒人だった」と。
(長い沈黙。その孤独の重さが、誰の胸にも響く。)
(ピアノ。1963年8月。卒業式のファンファーレ。)
それでも、彼は耐えた。
(彼の声が強くなる。)
1963年8月18日。彼は、政治学の学位を取得して卒業した。ミシシッピ大学の最初の黒人卒業生。
(彼の声に誇りが満ちる。)
その1年前、彼を入学させるために2人が死に、何百人が傷ついた。でも、彼は学位を取った。誰にも、彼を止めさせなかった。
彼は後に、ナイジェリアのイバダン大学で学び、コロンビア大学ロー・スクールに進み、1968年に法学位を取得した。
(ピアノ。1966年6月。路上の足音。一歩、また一歩。)
1966年6月5日。彼は、220マイルの「恐怖との行進」を始めた。メンフィスからジャクソンまで。一人で。
(彼の声に、その決断の驚きが込められる。)
彼は、公民権団体を招待しなかった。一人でやりたかった。彼は言った。「多くの人が農村部のミシシッピに入り込み、地域の黒人たちの負担になるのは望まない。これは、作物の植え付け時期なのだ」と。
無防備。武器を持たず。聖書と黒檀の杖だけを持って。彼は歩き始めた。
(彼の声が緊張する。)
彼は言った。「私は手を上げるだけで、暴徒を止めることができると感じていた。私は神聖な責任を負っている。だから、死ぬことはない」
(ピアノ。6月6日。銃声。)
6月6日。午後4時15分。
(彼の声が鋭くなる。)
彼は、28マイルを歩いた後、ハイウェイ51号線を進んでいた。ミシシッピ州ヘルナンドの近く。
茂みの中から、声がした。
「ジェームズ・メレディス! 俺が欲しいのはジェームズ・メレディスだけだ!」
(彼はそこで止まる。その瞬間の緊張を再現するように。)
その直後、ショットガンの銃声が3発響いた。彼は60発以上の散弾を——首、脚、頭、右側面に——受けた。
彼は倒れた。血の中に。彼は這おうとしたが、もう一発の銃声が彼を襲った。
(長い沈黙。)
彼は叫んだと言われている。「ああ、神様。誰か、私を助けてくれないのか」
(ピアノ。行進の継続。彼の代わりに歩く人々。)
その知らせは、すぐに全米に広まった。
(彼の声が力強くなる。)
マーティン・ルーサー・キング・ジュニア、ストークリー・カーマイケル、フロイド・マキシック——すべての主要な公民権指導者たちが集まった。彼らは宣言した。「彼の行進を、彼の名前で、完成させる」と。
(彼の声に、その連帯の力が込められる。)
メレディスが回復している間、数千人が彼の代わりに歩き続けた。彼の行進は、一人の男の孤独な闘いから、何万人もの運動へと変わった。
彼は、6月26日に——20日後——再び行進に加わった。彼と他の指導者たちがジャクソンに入るとき、彼らは推定15,000人の行進者を率いていた。
(彼は間を置く。その規模の大きさを、言葉で伝えようとして。)
この行進の中で、4,000人以上の黒人が有権者登録をした。
(ピアノ。2022年9月。オックスフォードに戻る老人。)
それから60年。
(彼の声に、時間の重みが込められる。)
2022年。彼は89歳になっていた。ミシシッピ大学は、彼を讃える式典を開いた。60年前、彼を入学させるためにキャンパスで暴動が起きた——あの同じキャンパスで。
(彼の声に、その皮肉への静かな驚きが込められる。)
彼は、いつもの真っ赤なミシシッピ大学の帽子をかぶって現れた。彼は言った。「私は、ただ単にミシシッピ大学のフットボールの試合に行っていたわけではない。私は政治をやっていた。そして、私を憎んでいると思っている人々の心に入り込んでいた」と。
(彼は客席を見渡す。その言葉の意味を、共有するように。)
会場では、彼に15以上の賞が贈られた。その中には、名誉連邦保安官の任命も含まれていた——60年前、彼を守るために戦い、傷つき、死んだ、あの連邦保安官たちの後継者として。
(ピアノ。彼の人生を静かに振り返るブルース。)
「あなたにとって、ジェームズ・メレディスとは何ですか?」
(彼はその答えを、自分の言葉で紡ぐ。)
彼は、一人で歩いた。誰も彼のそばにいなかった。誰も彼を助けたがらなかった時、彼はただ——前に進んだ。
彼は言った。「私は、自分が選ばれた人間だとは思わない。自分で決めたんだ。誰かがやらなければならない。なぜ、それが私ではいけないのか?」
(彼の声に、その問いの力が込められる。)
なぜ、それが私ではいけないのか。
その問いが、彼を動かした。その問いが、何万人もの黒人を動かした。その問いが、この国を動かした。
(ピアノ。彼がオックスフォードのキャンパスを歩く音。一人で。しかし、もう一人じゃない。)
彼は歩いた。ただ、それだけだった。誰も彼と歩こうとしなかった時、彼は一人で歩いた。誰かが彼を撃った時、彼は倒れた。でも、彼はまた立ち上がった。
そして、彼の後ろには——もう何万人もの黒人が歩いていた。
(彼の声が約束のように。)
キング牧師の「光」の前に、彼の影があった。マルコムXの「炎」の前に、彼の踵の跡があった。アリの「拳」の前に、彼の開いた扉があった。
彼は、その後のすべての始まりの、始まりの一人だった。
(ピアノ。最後のコード。低く、確かに。そして、優しく消える。)
彼は歩いた。ただ、それだけだった。
誰にも、止められなかった。
誰も彼と歩こうとしなくても、彼は一人で歩いた。
その一人の足音が、何万人の足音になった。
ジェームズ・ハワード・メレディスのために。
1933年6月25日生まれ。
彼は歩いた。ただ、それだけだった。
誰にも、止められなかった。
(拍手。深く、長い拍手。彼は軽く会釈する。その目は、1962年10月1日の朝を見ている。連邦保安官と兵士たちに囲まれて、登録事務所に向かって歩く若者。その背中は孤独だった。でも、その孤独な背中が、後に何万人もの背中を連れてくることを、彼はその時まだ知らなかった。しばらくの間——長い間、彼は何も言わなかった。ピアノの前に座ったまま、その歩く背中を見送っている。そして、ゆっくりと次の曲へと指を動かす。今度は、一人で歩く人のためのブルース。しかし、その音はもう誰の耳にも、孤独には聞こえない。)
※1 オールド・ミス(Ole Miss)は、ミシシッピ大学(University of Mississippi)の愛称です。
由来
「Ole Miss」は、ラテン語で「親愛なる母」を意味する"mater"を起源に持つ、アメリカ南部のスラング"Old Miss"("Old Mother"の短縮形)から来ています。1897年に行われた学生の命名コンテストで選ばれ、学校新聞の名前にもなりました。
知っておくべき重要な背景
ブルー・ワシントンの語りの中でこの名称が出てきたのは、大きな皮肉を含んでいるからです。
· 「Old Miss」=「親愛なる母」という意味の愛称でありながら、この大学は114年間、黒人学生の入学を認めていなかった
· 南部の名門大学でありながら、最も激しい人種差別の砦だった
· ジェームズ・メレディスが入学したとき、州知事が「この大学が統合されることはない」と宣言し、暴動が起きた
つまり「オールド・ミス」という愛らしい名前とは裏腹に、そこは黒人にとって「母」ではなく「敵」の象徴だった——そのギャップを強調するために、あえて「オールド・ミス」という名称をそのまま使っています。
現在は、もちろん黒人学生も普通に学んでいます。でも、当時の114年間の歴史の重みと、その名前が持つ「南部の古き良き時代」というイメージが、ジェームズ・メレディスの闘いをより浮かび上がらせます。




