第4話 剥き出しになった異彩
石畳の上に、砕けた瓶の破片がキラキラと、残酷なほど美しく散らばっている。
私の足元には、まだ震えている平民の少年。
そして目の前には、プライドを打ち砕かれ、怒りに顔を真っ赤に染めた貴族の少年。
「……ふざけるな、ふざけるな! 平民の分際で、私の魔力に触れるなど!」
少年の叫びが耳の奥で反響する。
魔力をごっそりと持っていかれた私の身体は、鉛のように重い。視界の端がチカチカと明滅し、ひどい倦怠感が全身を襲う。
(逃げないと……。目立ってはいけないのに……)
本能が警告を発している。だが、私の内側に灯った「ベリージャムのパンの記憶」が、重い足を地面に繋ぎ止めていた。失ったものを取り戻す痛みが、今の私には心地よかった。
「消えろ! 掃き溜めのゴミめ!」
少年が再び手を掲げる。私にしか見えない「黄土色」の魔力が、彼の背後に岩石の散弾を形作った。その色の濁り具合からして、先ほどよりも込められた魔力が大きいことだけは、本能で理解できた。
限界だった。今の私には、もう一度あの出力を霧散させるだけの魔力は残っていない。
その時。
「――そこまでにしなさい。クロムウェルの門前で醜態を晒すのは、我が校の品位に関わります」
凛とした、鈴を転がすような声が響いた。
声の主は、学園の制服とは異なる、深い紺色のローブを纏った女性だった。
彼女が軽く指を弾いた瞬間、私の視界は圧倒的な「深い海の青」に塗りつぶされた。それは少年の黄土色の魔力を一瞬で飲み込み、まるで最初から何もなかったかのように洗い流してしまった。
「……っ、あなたは、学生会の……!」
少年が息を呑み、突き出していた手を慌てて引っ込める。
紺色のローブの女性は、冷ややかな眼差しを彼に向けた。
「実力行使は試験会場でのみ許されるはず。それとも、入学前に退学届を書きたいのかしら?」
「くっ……。覚えていろよ、泥棒猫!」
少年は吐き捨て、逃げるように正門の向こうへと消えていった。
嵐が去ったような静寂。私は緊張の糸が切れ、その場に膝をつきそうになった。
「大丈夫?」
女性が歩み寄り、私に手を差し伸べる。
彼女の纏う魔力の「彩」が、私の目にだけは鮮明に映る。
それは、ただの青ではない。深海の底のように静謐で、抗いようのない重圧を湛えた、見たこともないほど濃密な青。彼女の立ち居振る舞い以上に、その「色」が彼女の格の違いを雄弁に物語っていた。
「……ありがとうございます」
私はその手を取ることができず、自力で立ち上がった。
お礼を言うのが精一杯で、正体を聞く余裕なんてなかった。ただ、『灰』が私の存在を必死に隠そうとしている。彼女のような巨大な「色」を持つ者の前では、透明な影でいることすら難しい。
「あなたの魔法……。不思議な術理ね。打ち消すのではなく、存在そのものを『分解した』ように見えたけれど」
彼女の指摘に心臓が跳ねた。他者には現象の結果しか見えていないはずなのに、彼女は何かを感じ取ったのか。私は何も答えず、ただ深く頭を下げると、地面に座り込んでいた少年に視線を向けた。
私は懐から、おばあちゃんが持たせてくれた予備の魔法媒体――小さな結晶の欠片を取り出し、少年の手に握らせた。
「……これで、頑張って」
少年の驚いた顔を見る前に、私は逃げるようにその場を去った。
受付窓口には、長蛇の列ができていた。皆、自らの「色」を誇示するように魔力を漂わせている。……いや、自覚的に漂わせている者は少ないだろう。私には、彼らが隠しているつもりの素養が、透き通った色、濁った色、弱々しい光として丸見えなのだ。
「……次。カトレア・フォン・ローゼンタール様、前へ」
案内役の声に周囲が色めき立った。
祭壇へと進み出る、燃えるような赤髪の少女。彼女が水晶に触れた瞬間、ホールは爆発的な光に包まれた。
私の視界が焼ける。
鮮烈な「真紅」と、気高い「純金」。
カトレアと呼ばれた彼女が放つ二つの色は、完璧な調和を保ちながら、ホールの色彩をすべて自身の支配下に置くかのように広がった。これがこの世界で尊ばれる「高貴な色」なのだと、教えられずともその輝きが証明していた。
「おお……なんと美しい二重属性。流石はローゼンタール家の至宝だ……」
会場全体が彼女の放つ圧倒的な「光」に酔いしれている。
祭壇を降りるカトレアと視線が交差した。彼女の鋭い瞳が、色彩を失いかけた私の「灰色の輪郭」を射抜く。それは強者が弱者に向ける、憐憫すら含まない冷徹な選別だった。
「……次。推薦状持ち、レイナ」
私は重い足取りで祭壇へと向かった。震える指先を冷たい水晶に触れさせる。
(……見せないと。私は、ここに来たんだから)
心臓の鼓動に合わせて、私の『魔力』が水晶へと流れ込む。
次の瞬間、ホールを支配していたカトレアの残光は、音もなく死滅した。
「な、……なんだ、これは!?」
水晶は属性の色を放つ代わりに、内側からどろりとした無機質な「灰色」に染まっていった。
それは光を反射せず、周囲の色彩すら吸い込んで侵食していく、底なしの虚無。
「属性がない……? いや、これは無属性ですらない」
周囲の志願者たちの鮮やかなオーラが、私の『灰』の波動に触れた瞬間、怯えたように一歩引いた。彼らには「見えて」いないはずなのに、本能がこの「色の欠落」を恐れている。
「君、君の魔法はユニーク魔法なのか!?」
試験官の声が裏返る。
去り際だったカトレアが足を止め、振り返るのが見えた。
完璧な色を纏う彼女の瞳が、驚愕と、初めて見る「理解不能なもの」への強い拒絶を湛えて、私をじっと射抜いていた。
剥き出しになった私の異彩。
灰色に染まった視界の中で、推薦状の隅に押されたおばあちゃんの印章だけが、唯一の守り火のように静かに光っていた。




